c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

二歳の眠らない子

私の子供はなかなか眠りません。

九時に寝るのはいいほうで、遅い時には十時まで寝ません。

朝は七時にぱっと起きます。だから睡眠時間は足りているみたいです。でも、やっぱり少し心配です。

もっと遅くまで寝ない子もいるのでしょうが、なかなか悩みです。

 

だいたいは、テレビを見ながら遊びたい、と思っているらしくて、テレビなしの生活にはなれません。いろいろ工夫してはみるのですが、いつまでも泣くので閉口して根負けし、結局テレビをつけてしまいます。

テレビを見るだけ、ということはなくて、テレビを見ながら踊ったり歌ったり、他の遊びをしながらながら見をするという感じだから、別にいいか、とも思っています。

 

おとなしい子なので、あまり気づきませんでしたが、どうもいやいや期のようです。

自分で歩きたい、こういうことをしたい、まだ眠くない、というときに泣きます。

 

寝る前には、暗くしてから一時間は泣いて、疲れて寝るというパターンです。

疲れて寝るまでがしんどいのですが、我慢するしかないかな、と思っています。

 

エールベベのサラット3ステップクワトロでも抜け出してしまっていた

チャイルドシートのサラットは、子供が抜けださないことで有名なのですが、うちの子供は、二歳になっても十キロに満たない小柄なためか、抜け出すことで悩んでいました。

足を隙間から戻して、体をひねって、するりと抜けていたのですね。

座布団を引いたり、背中にまくらやバスタオルを入れて補正したり、いろいろしたけれど、うまくいかなかったのです。

 

サラットで検索すると、「サラットなら抜け出さない」という人ばかりで、「サラットでも抜け出してしまう」場合はどうしたらいいのか悩んでいました。

「抜け出さないゾー」を買おうかと悩んだんですが、口コミを見るとそれでも抜け出す、とか、そもそも、五点式じゃないと使えないので、そうするとチャイルドシートを買いなおすしかなくなるので、現実的じゃないなと悩んでいました。

 

 

サラットで同じ思いをしている人はいないか、探したんですけど、悪い口コミで一人か二人だけいました。

その人は、「靴を履かせたまま座らせる」「ちゃんと座っているように言い聞かせる」の二つで抜け出さなくなった、と書いていました。

半信半疑でやってみると、座ったままでいてくれるようになりました。

 

「靴を履かせる」「言い聞かせる」は確かに有効でした。

遠出をする予定があり、三時間座らせていないといけなかったので、解決して本当に良かったです。

 

抜け出さないならサラットは、肩ひもがないため、子供の負担がなくいい商品です。

 

 

 

写真の中の人にコーヒーを差し上げる

詳細は省くが、子供が写真の中にしかいない人にコーヒーを飲ませたので、みんなで涙ぐんだ。写真というのは今はそこにない光景を映し出していてそれがとても悲しい。時間をさかのぼることはできない。同じ場所は存在しない。同じ人に会えることもない。

 

話が変わるけれど、子供がいないいないばあを観なくなってしまった。

二歳になって、大人になったのだ。

 

いないいないばあは素晴らしかった。子供は見ながら毎日かわいい踊りをしてくれたり、歌ったり、手遊びをせがんでくれたりしていた。

それなのにわたしは、スマホを見て、そのかわいい姿をなおざりにしていた。

二度とない瞬間のすべてを見逃したくないと思っていても、つい疲れたりぼーっとしてしまったりして、スマホに逃避してしまっていたのだ。

でも、やっぱりそれは、わかっていた通り、間違っていて、とても後悔している。苦しいほど悲しい。

 

あの踊りも、振り付けの最中にぺこっとするのも、二度と見られない。

つけても、コントローラのバツを押して番組を変えてしまう。

背中に乗って、まっすぐまっすぐまーっすぐとうたいながら、うへうへ笑うこともない。

 

そう思えば、瞬間的に涙腺は緩む。

 

今日は、水族館に行った。日差しが強くて暑かった。子供は階段を上りたがるので、両方から手をつないで、一緒に歩いた。歩きすぎて疲れただろうに、子供ははしゃぎまわって泣いているような声で笑っていた。顔を見なければ、泣いているか怒っているか笑っているかわからない。それぞれ違う感情なのに、同じ声で笑うから。

 

子供が水槽にへばりついていると、イルカがやってきて、そばに何度も来てくれ、にこっと歯をむき出して笑ったので、最高のツーショットが撮れた。もちろん、歯をむき出しにしたからと言って笑ったとは限らない。攻撃したいと思ったのかもしれない。どっちでもいい。なぜなら私たちは水槽の中には行けない。イルカも水槽の中から出られない。壁を隔てて私たちは違う世界を生きている。水の中と空気の中では会話もできない。思考も共有しない。感傷が、私に、彼らの感情を想像させるけれど、それは自分のエゴの投影に過ぎない。

広い意味では、同じ次元の同じ平面、同じ時間にほぼ同じ座標ににいるけれど。目が合っても、考えていることは一つも分からない。目が合ったと思っているのは私だけだ。

 

あのイルカはほかの一歳くらいの子供にも同じサービスをしていたから、人間の子供がかわいいのかもしれない。イルカたちも子供を連れていた。二組の親子イルカ。赤ちゃんイルカが、親にぺったりと寄り添って泳いでいた。

 

子供は「うおー」というような雄たけびを上げて、じっと見つめていた。

 

しましまの魚、赤い魚、エイ、大きい魚、小さい光る魚の群れ、トルネード、スコールやマングローブの中に、いろいろな魚がたくさんいて、それ以上に多くの人間がいて、人間を見るのに酔って、自分の首筋には蕁麻疹が出た。

タコがいて、六歳くらいの知能があるはずだと聞いていたので、あんな狭い水槽ではかわいそうだから連れ出したいと思った。衝動的に。でもできない。私はタコを食べる平気に。

子供はずっと走り回っていて、それを止めようと右往左往しているうちに夫の足には靴擦れができ、彼からそれを伝えられたので、ばんそうこうを渡して、靴下を交換した。親しくなければ靴下の交換なんて気持ちが悪いし、これを今読んだ人も気分が悪いかもしれないが、本当に親しいと靴擦れができていたい人のために、痛いだろうと靴下さえ交換して、いたわることができるんだと思った。私にはそういうことができるんだなと思った。

 

私と血のつながっていない人たちは、私の子供をかわいがって、辛抱強く話しかけ続けた。彼らは上手に説明をする。ころころするよ、ドラえもんお船の絵どっちが好き?上手にできたね、こうやってみて、飛ぶよ、ほら飛んだ、うまくできたね、そこを指で押さえると飛ばないよ、そういう風にずっと話しかけていた。わたしはその光景を見ているうちにさみしいような胸を締め付けられるような、つまり、幸せな夢を見ているような気持になって、ふわふわして、これは現実だろうかと思った。

 

私は何時も雑に子供に話しかけるから、あんなふうに丁寧に、遊んでいるときに話しかけたりしない。

これはいい、あれはだめ、それはよくない、上手だね、うまいね、よくできたね、良かった根みたいな感じに話すから、物事の説明はあまりしていない。

 

血のつながりがあると、雑に話しかけても通じるような錯覚をするから、生きているうちにみんな話し合わない。私は、雑なのが分かっているから生きている親に話しかけない。手紙を書いた。書いた相手と書いていない相手がいてそれぞれどう思っているかはよくわからない。私は彼らを幸せにしてあげたかったと長く願っていたけれど二人とも今幸せかはわからない。幸せにするためにどんなことでもしていたけれど、それでもだめだったから、自分をすり減らしてしまった。なくなってしまう前に逃げられた。

 

私の子供は、私のことを嫌いになり憎んだとして、そして、大人になって二度と会えなくなって、一人で生きて行って幸せになってくれたらそれ以上さみしく、うれしい、幸福なことはないと思う。私のそばにいて不幸なよりも、私から遠く離れて幸せであってほしい。ただ、私は子供の幸せを作ることができない。

でも、私が自分を幸せであろうとすることができる。そうしたら、私が親から受け取った負担の一つを減らすことができる。幸せな人は幸せを連れてくる。自分を幸せにすることでしか人を幸せにすることはできない。

 

 

子供は写真の中の人にコーヒーを飲ませることができた。写真の中の人がコーヒーを飲むことはできない。でも、その優しさのようなものが、私たちをさみしい幸せに導いたことは確かで、そして、私たちは子供のことを愛しているということも明らかだ。冷たい泉のような希望に満ちた光。今は隣でキーボードをいじって、私の真似をしている。さっきは椅子から転げ落ちて泣いた。趣味でテントウムシの格好をしてもらっている。

 

 

汗まみれになって、水族館でイルカを見た。イルカは子供を連れていて、そして、私の子供のそばによって、歯をむき出しにしながら、縦泳ぎで、プールの底からすっと上がっていった。

テーブルを水溶性ウレタンで修理した。

テーブルの塗装が剥げてきて、油などのシミや傷、へこみが目立ってきたので、リペアしようと思いました。

 

今日はできそうな気がしたので、思い切ってウレタンニスを塗ってみました。

塗ってみたら、だいたいうまくいきました。

疲れて、失敗したところに目が向きがちなんですけど、疲れたせいだと思います。

 

仕上がりは、ピカピカになって気持ちいいです。

 

 

やり方を調べたところ、水溶性ウレタンニスというのがいいらしいとわかりました。

ニスではなくて、水性ウレタンニスというのが乾くのが九十分で済み、扱いやすいということで、これに決めました。少量しか使わないので、値段はあまり気にしません。

下記の商品は、水で伸ばすことができるので、薄く塗れ、扱いやすいとのこと。

 実際に使ってみたら、拍子抜けするくらい簡単でした。やるまでに調べたりやる気を出したりするほうが大変な気がする。

 

 ワシンの水性ウレタンニスというのを買いました。

あとは、こてばけとサンドペーパーを280と400。

 

ハンディクラウン ワンタッチコテバケ INNOVA 1395200200 150mm

ハンディクラウン ワンタッチコテバケ INNOVA 1395200200 150mm

 

 やりかたとしては、サンドペーパー280でテーブルの表面をこすって、きれいにした後、ニスを塗る、ニスを塗ったら、サンドペーパー400で磨く、塗る、完成。という感じです。

 

なぜサンドペーパーで表面をこするかというと、実はテーブルの傷や取れない油じみだと思っていたものは、塗膜についているものなので、塗膜を落とせばきれいになるのです。

薄くなった塗膜を取るために一回目のサンドペーパーをかけます。深さが一ミリくらいの傷なら取れます。

テーブルに傷がついたように思ってびびりながらしましたが、ニスを塗ると結構大丈夫でした。

 

ニスは、失敗してもリカバリーしようと思わずに、無視してやるほうがいいです。

 

わたしは、あとから気づいたむらを何とかしようとして、サンドペーパーでこすりすぎて、若干失敗しました……。

 

ワシンのニスは90分で乾くのはポイントが高い。朝十時に塗って、十二時に塗って、 二時半に三度目を塗って、四時には使えました。

ニスを塗ってからサンドペーパーをかける意味は、上から塗ったニスをはじかないようにするためとざらつきを落とすためらしいです。二度塗りの時に、そのまま塗ると、水滴のようになって、ニスにむらができてしまいました(試しました)。

 

せっかくきれいに塗ったニスに傷をつけるのは嫌ですが、重ね塗りをするためには、必要な作業でした。

最初、なぜサンドペーパーかけするのか意味が分からないので、テーブルの足でためしたところ、撥水してしまったので、なるほどーと思いました。

 

 

ウレタンニスを塗り終わったら、ピカピカになりました。家族の評判も上々で新品のようにつるつるです。

作業時間は、最初のサンドペーパーに三十分くらいかかり、ニスを塗る作業自体は、十分くらいでした。

 

 一日でこんなにきれいになるならもっと早くやっておけばよかったです。作業も楽しかった。

夏の公園2

芝生には誰もいなくて、まだ風も涼しく、日差しもそれほどではなかった。

自動販売機で、子供のためになっちゃんを買ったら、もう飲みたいとジェスチャーする。「あ、あ」と言って、手を伸ばすので、ふたを取ると、くちばしのようにうわくちびるを伸ばして、一生懸命飲む。あごまであげなくてもいいのに。

ちょっとだけにしなよ、後で飲ませてあげるからと言ってとりあげようとしたら、ペタッと座り込んでストライキをした。

子供は、飲み物を飲むときには、ちゃんと座らないといけないのだ、と思っているらしい。それは、とてもかわいらしい。

仕方がないので、ペットボトルを支えながら一口一口飲ませる。嬉しそうに、くちばしを三角形にして飲んでいた。飲み終わると、口の周りに水滴がついていたので、タオルで拭いた。

 

三人とも麦わらをかぶっていた。影が、麦わら帽子の形に並んでいる。

水飲み場を見つけて、子供が駆け寄っていく。正確には、駆け寄るつもりで早歩きになった。一応走れるようになったとはいえ、まだ上手ではないので、早歩きになるだけのことも多い。でも、本人としては走っている。

 

水飲み場で、じっと背伸びをしてのぞき込むので、期待に応えて、蛇口をひねると、うれしそうに手を伸ばした。「んーんー」と言って飲みたがる。また飲むの?まあいいけど、と言いながら抱きかかえて、小さな噴水に掲げた。

柔らかくて熱い。おなかを持つと苦しいだろうとわきの下で支えていくと、顔やあごの下、服を濡らして、満足そうにしていた。

暑さですぐ乾くし、むしろそのほうが涼しいだろうと思って、下ろしてから、水を少しだけかけた。水がきらきらするので、喜んで、両手を広げていた。

 

芝生には、朝露が少しだけ残っていて、台風で折れた枝が落ちていた。まだしおれ切っていない葉っぱがついていた。

桜の木だろうかと、バラ科の葉だね、と言いあった。

子供は枝を拾って、ほうきのように掃いたり、振ったりした。

振るのがおもしろいのか、私にかざして、がさがさと腕にあててきたり、夫にぶつけたりしていた。

しばらく芝生の坂道や生垣の近くを探検していたけれど、他の親子がやってきてボールを蹴っており、混ぜてほしそうに子供が近寄るので、悪いと思って、森のほうへ歩いた。

子供は、木の枝を夫に渡して、今度は木の実を拾って投げた。

木の実がいっぱいあってうれしいねと声をかけた。

地面を、小さな手でワイパーのようにこすったり、小石をつまみ上げては、投げたりしてもいた。

三人で鬱蒼とした木の下をくぐって、砂利道を歩くと、蝉が落ちていた。

地べたでひっくり返ってバタバタと苦しんでいたから、助けようとしたら、何かオレンジ色のものがついていた。

蜂が蝉を襲っていた。

 

たぶん卵を産み付けていたんだろう。蜂も必死だ。かわいそうだね、厳しいねと言いながら、砂利道を歩いた。

 

 

ミンミン蝉のほかに、つくつくほうしも鳴いていて、盆を過ぎると秋が近づくというのは本当だな、毎年毎年、盆が過ぎさえすれば涼しくなると、人と話はするけれど、暑さで信じられなくても、やっぱり秋も冬も来るなあと思った。

テニスコートを通り過ぎる時、やっぱりおはようございます、と言った。

階段を見つけたので、子供は張り切って登ろうとした。急な階段だったので、土で滑らないように、私は手をつないで、夫は下から支えられるように待機して、三人で登って行った。上ったところは先ほどいた芝生だったので、また芝生を歩いてもいいなと思ったけれど、子供は後ろを向いてもう降りようとしていた。

子供は階段を上り下りすること自体が好きなのだ。

 

三人とも汗をかいたので、一度車に戻ることにした。特に子供は、水をかぶったように濡れていて、麦わら帽子まで汗が染みだしていた。自分で帽子を取って、頭がびしょびしょだ、とというように髪の毛をきゅっと引っ張るようなジェスチャーをして、また両手でつばをぎゅっとつかんで、かぶりなおしている様子がいじらしかった。

おでかけやおんものときには、帽子をかぶるものだと信じていて、自分から脱いでも、またきちんとかぶりなおす。

 

車で水分補給をして、今度は遊具のところへ行った。いつもなら、自由に使っていいボールがあるけれど、お盆のせいか、置いていなかったので少しがっかりした。

子供はボールを蹴ったり、投げたりできるようになっていて、ボールが特に好きなのだ。

また、管理人が休みのせいか、草が、子供の背丈ほどにも伸びていて、「普段は管理人さんがこまめに刈っているんだね、大変な仕事だ」と話し合った。

 

プールが目の前にあり、子供は、フェンスをつかんでじっと立っていた。

親子連れが、男の子に泳ぎを教えていた。「すごいじゃないか、よくできているよ」と男性がその子をほめると「オリンピック目指せる?」と女性が言った。「それはたいへんだから考えたほうがいいな」と言って男性が言い、三人とも笑って、息子はまたバタ足をしていた。

プールのほうから吹く風はひんやりしていて、とてもさわやかだった。

子供は、ひたすら真剣な顔をして、プールを見つめていた。

「来年か、再来年か、それくらいしたら入れるかねえ」

「そうだねえ」

「明日、保育園でプールは入れるからね」

と話しかけても、子供はプールに夢中で無反応だった。

きりがないので、抱っこして運んだら、急斜面で降りると身をよじらせ、自分で登ろうとして、やっぱり難しかったので、また抱っこして遊具に連れて行った。

子供は、滑り台が大のお気に入りで、見つけるとさっと飛んで行った。

 

少し前までは、補助をしないと滑ることも難しかったのに、低いローラー滑り台なら、一人で登って降りれるようになった。

 

体重が軽すぎて、ローラー滑り台が動かないので、背中を押してやると、進んだ。でも、それもだんだん自分で工夫して、滑り台のふちをつかんで、自分で滑れるようになっていった。滑るときには、口を開けて、目を細めていた。

どんな感じだろうと思って、自分も子供の後を滑ってみた。そうすると、子供が、さも愉快そうに、後ろを振り返って、けらけら笑っていた。

下に吸い込まれるような感じで、わたしもキャーキャー言いながら滑った。

すると、子供はもう一度一緒に滑りたいと期待するように見たので、もう一度一緒に滑った。

 

他の家族が来たので、今度は、大きい滑り台へ移った。この滑り台は、アスレチックがついていて、それを抜けないと滑れない。

ロープで編んだネットの上につり橋があって、そこを渡っていく。

子供は緊張した面持ちで、網に足をついて、木をまたいで、慎重に進んだ。後ろから、夫がついて行って、支えたり、励ましたりしていた。

 

すでに一時間近く遊んでいたので、子供はふらふらしかかっていた。だから、二、三回滑ったらやめようと相談していたけれど、子供は滑るとさっと登って行ってしまう。

今度こそ最後にしようね、といって、夫は膝の上に子供を乗せて一緒に滑り降りた。子供はものすごくうれしそうな顔をしていた。

そして、そのまま抱きかかえて、連れ去っていった。子供にとってはだまし討ちだったので、少し抵抗していたけれど、自分でも帰るころだとわかっていたのか、おとなしく連れ去られていった。

 

ドライブスルーでハッピーセットや、スパイシービーフを買って帰って食べた。

お盆も保育園に預けている

 

夫は、朝五時半に出て行って、夕方に帰ってくる。片道三時間、往復六時間らしく、夜には疲れ切って、昨日もすぐ眠っていた。朝起きると、パパがいないとわかるのか、子供が探している。夜も、靴を履いて、外に迎えに行こうと誘ってくる。

「ぱー、くー(パパ、靴)」と言って、玄関でじっと待っているのをみると切ない。

 

子供を保育園に通わせていて、お盆中も預けている。

 

かわいそうだなとも思ったし、自分もさみしいなと思ったが、本人は、何も気にせず、喜んで通っている。

朝になると保育園バッグを出して、連れて行ってほしいとアピールする。

それでも連れて行ってもらえないとわかると、次々にバッグを掘り出して持ってくる。

バッグを出せば、おんもに連れて行ってもらえると思っているのだ。

 

今日は朝からだるそうで、朝になって起きても、布団でごろごろしていた上に、体温が37.3度と高めだったが、本人の希望で連れていくことにした。

保育園では37.5度未満だったら通わせてもいいことになっている。

 

雨が降っていたので、傘をさして、抱っこで連れて行った。

子供は、まだ10キロに満たない体重だ。食が細いのか運動量が多いのか、なかなか太ってくれない。

 

途中で、気が付かない間に、子供が家からずっとバッグを持っていたのを落としたので、保育園バッグに突っ込んだ。今日は、周りをきょろきょろしないで、神妙に運ばれていった。

保育園に自転車で送るときには、ヘルメットを出すと、もうわくわくした感じで、ちょっとだけにこっとして、靴を履かせると真面目な顔に変わる。

ものすごくうれしい時や興奮しているときには、笑わないで真面目な顔をして、むすっとするのがかわいらしい。

 

自転車の前の座席に乗せると、後ろを振り返り、うなずいて、また前を向いて足をバタバタさせる。

雨が降ると、雨のことを「めめ」といって、かさをもちたがるのだけど、今日はそうせず、ずっと私にくっついていた。

最近は、「てて」を欲しいという意味で使っている。

「いないいない、てててて」というと、いないないばあが見たいという意味だし、「た、ててて」と言ったら、トマトを食べたいという意味だ。トマトのことを「とたと」と言っていたけれど、それを省略して「た」になった。

トマトが大好きで、夕食の時にもトマトばっかり食べる。冷蔵庫をたたいて、「た、ててて、た、ててて」と言って泣くので、やっぱりトマトをあげてしまう。

 

 

子供とは、意思の疎通はできるけれど、語彙は増えない。一度覚えた単語も、使わなくなって、ジェスチャーで要求を伝えてくる。おやつが食べたかったら、戸棚に縋り付いてからお皿を出す。それでももらえなかったら次々とお皿を出してくる、みたいに。

でも、ジェスチャーも言葉の一種だから、伝えたいという意思があるので、気にしないようにしようと思う。

 

 

 

シソが枯れかかっていたので、ダメになったシソを抜いて、肥料と水をやって手当てをした。ガジュマルの葉も黄色くなっていて、ちょっと心配だ。一昨日まで元気だったのにどうしたんだろう?

 

セミの声もしたし、鳥もさえずっていた。

雨が降りやんでも、湿っぽい、生暖かい風が吹いていて、夏っぽいなと思った。

 

 

 

夏の公園

今日は公園に行ってきた。森の中にある公園で、セミの抜け殻がいくつも落ちていた。

シロツメクサが枯れていた。濃い緑が輝いていた。森の中から湿った冷たい風が吹いていた。砂利道と舗装された道が入り混じっていたが、古い落ち葉が落ちて乾燥していた。名前を、昔は知っていて、今は知らない、白い花が咲いていた。

十時ころついて、十一時半くらい散歩して遊具で遊んだ。

 

暑いんじゃないかと覚悟していったけれど、山間の公園だったせいか、木陰が涼しかった。

風はひんやりしていて、木が茂っていた。

虫もいっぱい飛んでいた。サッカーをしている親子がいた。「だからお前は甘いんだ」としかる声がして、子供は下を向いてボールを蹴っていた。

テニスをしている人たちがいた。「あー失敗した、ごめんなさい」とか、笑い声がしていた。座って求刑している人が二人いて、挨拶をしてくれたので、あいさつを返した。子供を「かわいい子ね」と褒められてうれしかった。

 

子供は一心にとてとてと歩き、ときどき石を拾ったり、花を摘んだりして、それをいちいち見せてくれた。外を歩く嬉しさに口を開けて、坂道を登った。急にしゃがみこんだり、手を振り払ったり、そうかと思えば手を差し出して、一緒に手をつなごうと誘ってくれたりもした。

 

水飲み場がいくつかあって、蛇口をひねると噴水のように水が湧き出て、日差しにキラキラと輝いていた。服を濡らすと涼しくなった。子供は「きあきあ(きらきら)」と言って目を細めて両手を差し出していた。

「楽しいね」というと「ねー!」と言って小首をかしげて真似をしてくれる。

うまくいくと「たー!」という。やったーの意味。

笑うけれど、笑うのもまだ上手じゃなくて、「きゅきゅきゅ」みたいな音を出す。

あははは、とか、くすくすくす、というのは後天的に獲得する笑い方なんだなと思う。

 

 

遊具にネットが張ってあった。子供はそれを登ろうとしていた。ひとマスが身長の三分の一もあるから、とても無理だと思ったが、頂上まで登り切った。誇らしそうに口が開いていた。少し怖かったのかもしれない。最後だけはおしりを押してサポートした。

 

 

なっちゃんを買ったら、一気に180mlも飲んだ。帽子をずっとかぶっていたのを脱いだ。そうしたら、細かい汗がびっしりと光っていた。帽子をずっとかぶっていて偉いねと言いながらまたかぶせた。両手でつばをぎゅっと握って引き下げて深くかぶりなおすしぐさがかわいくて笑ってしまった。

真面目な顔でずんずん進む。でも、一時間たつとよろけてしまった。もう眠いんだなと思って車に連れて行って帰宅した。

 

眠かったのか、家について食事を出してもあまり進まなかったので、布団を引いて寝かそうとした。

それでも、寝ないで、洗濯ばさみをばらまいたり、洗濯物をしまうそばからバケツからそれを出したり、洗濯物を干す真似をしたり、ベランダから下を覗いだり、逃げたり、いろいろなお手伝いと悪事を働いていた。

 

背丈がずんずん伸びるのに、体重が一向に増えないのでひょろりとしている。

 

寝たふりをしていたら、わんわんわんわんいないないと言って、いないないばあを催促して泣いてそのまま寝てしまった。

くちびるが三角形になっていて、ほっぺたがひしげているのを見ると、なんとも言えない、ぎゅっと胸が締め付けられるような思いがする。

 

あと十五年もしたら、家から出てしまって、もしかしたら場合によっては二度と会えないこともあるんだろうな。それはそれで受け止めるとして、あと十五年くらいだけでも、一緒に居られて幸福だけど、今から思ってもすでにさみしい。考えると涙が出そうになる。子供を育てるというのはたいへんな幸福だ。こんなことは、望んでも難しいと思っていた。これだけで生きてきたかいがあったと思う。

 

 

いろいろな心配事や不安があるけれど、それらを保留にして、忘れることで解決することもあれば、きちんと直視して手を打たないといけないこともある。そういう生活をわたしは望んできて、得られるはずはないと思っていたけれど、得ることができた。

 

子供の靴が玄関に落ちているとそこだけ光っているような気がする。花を一輪行けるよりももっと美しいもの。

そんな歌があった。子供は次々と新しい靴を履いて、いつか、どこかに走り去ってしまう。

笑い声は鈴を転がしたようで、それもまた、十数年という近いうちに消えていくのだけど、今はまだある。にぎやかだった子供が寝て、静かになるとどうしようもなく感傷的になる。小さな死が、成長を連れてくる。成長はこの子を連れていく。この子の生きる道へ。

 

汗を自分で拭うこともまだ知らない。でも、もうすぐそんなこともできるようになる。毎日がわたしから自立していく過程で、それはとてもさみしいことだけど、お互いの解放でもある。

 

 

こんなことをよく考える。毎日愛しい。