せんせいのお人形を読んで感じたこと
ツイッターで評判の良かったせんせいのお人形を読みました。
すさんだ状況でサバイブしてきて、何も見ず何も感じないように過ごしてきた少女の話です。
親せきの間をたらいまわしにされて、だれからもいらない子として扱われていた子供を引き取って教育していく、という話です。
それは、人に認められるため、というよりも、自分で自分の人生をかじ取りするために彼女自身が「知」を獲得していく物語です。
読んでいて背筋が伸びます。
好奇心や知ることの喜びが爆発して、頭が沸騰しそうになる部分がよく描けています。どうして藤のさんが天才の気持ちを想像できるのか不思議でなりません。
わたしも十四歳のころ、同じような経験をして、世界を手中に収めたと錯覚しました。
すべては自分が掌握でき、そのうつくしさを理解できる。そういう気持ちです。
なにかが有機的に結びついていて、学問の根っこが同じことや、人々の心や歴史が星のように輝いていて、それがどっと首筋に流れ込んでくるような感覚です。
あのときは、桜が散っていて、花弁が光の粒子のように輝いていて、風がさあっと吹きわたっていました。透明な緑の光が、葉陰から差し込んでいました。
わたしはベンチに座っていて、動物の鳴き声を聞いていました。
よく想像していたことですが、わたしがダークマターくらい小さな存在だったとすると、わたしは巨大な何かを通り過ぎることができます。巨大な何かは粗だからです。そして、わたしは誰かを通り過ぎたことを近くできないし、巨大な何か自身も近くできません。それでいて、わたしたちは、お互いの存在に触れているのです。
せんせいのお人形は、一巻の伏線が一気に回収されて、豊かな物語に変換されていきます。あらすじの描く弧はとてもきれいです。
絵もとても気に入りました。
中でも気に入ったのは、唇の描き方です。ときどき、ああ、子供ってこういう口元をするな、と思ってにこにこしてしまいます。
主人公の顔がだんだんほどけてやわらかい表情になるのも、見ていてグッときます。
物語だから、出会うべき人と出会うのが淡々と描かれていきますが、救いというのは、相補的に行われるのだと諭されるようで、「学ぶ」「救われる」「うれしい」という感情は、人間(それは生身でなくてもいい、書物や数学、物語から伝わるものすべて)から伝えられるものなのだと思いました。
孤独でいても、どれだけ自発的に自分の考えや感情が独立したものだとしても、それは、人と人との有機的なつながりから得られたものだなと思います。
私は、本を読んで、時間的にも地理的にも離れた人と会話しているつもりでいます。
それは、寂しかったころ、そうしていました。そのころ出会った本の積み重ねがあるから、今も生きていられるのだと思います。
そういうことを改めて思い出させてくれた良い漫画でした。三巻が出るのが危ぶまれているそうですが、とても楽しみにしています。
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