動物は水が清らかなことに幸せを感じる
「りーご、どじょ(りんごをどうぞください)」と言って子供はリンゴを欲しがるので、私はむいてやることができる。そういう自由はある。「おいっち」(おいしい)と言ってにこにこしたり集中して口をとがらせる子供を見ることもできる。頬は丸くすべすべしている。柔らかくて温かい。湿度が高い自由だ。
まだ、何者かになってから死にたいと思っている。こういうのは、乾いた自由だ。孤独な自由。身動きが軽いから、高く舞い上がることができる。
何者かになりたいなんて人の前では恥ずかしくてもういえる年齢じゃないけれど、でも、どこかで、死ぬ前までには何者かになって死ぬんじゃないかと思っている。人生と寿命は長いわけだから。
なんにもないってこと、そりゃーなんでもありってこと、って歌にもうたわれているけれど、
私は、もうなんにもないわけじゃなくなってしまった。
何者かになるためには何かを持っていたらもうなれない。
乾いた自由には軽さが必要だから、荷物を持っていると重たくなってしまう。
重くなると飛べなくなる。飛べなくなると自由はない。自由なき場所には挑戦もない。
優しさも邪魔になる。
けれど、今なら私は「りーごどじょ」の世界のほうが自由だと思ってしまう。見つめていたいものを見ている自由を感じる。
何か持っていると怖くなっていろいろ考えてしまう。
自分のことだけならできることでも、守りたい人を守れなくなるのは怖いなと思う。
そして、私は飛ぶよりも地上を這いずり回って目の前にあること(三角関数の問題を一問解くとか、テーブルを拭くとか)をいつしか選んでいたんだ。
選択は、今決めるといった種類のことじゃなくて、長い時間をかけて、自分がそういう流れになるようにし続けた結果、最後に選択肢として現れるものだから、選択肢が現れた時点では既に選択してあるようなものだ。選択の連続で今流れ着いた。
毎日何も不自由ない。困ったことや懸念材料不安はあるけれど、一つ一つ乗り越えていけばいい、そういう見通しも立つ。
そういう見通しが立って未来のことが予測できる自由があることを知った。
先のことがわからないからむやみやたらに両手を振って前方や後方、右や左に何かないか確かめながら進まなくてもいい。ちゃんと遠くの音も拾える。
予測できるってことは、ありがたい、心構えができる。そして、その分、自分の行動も制限される。
制限されるのだけどそれは余裕になるからそこから生まれる自由もやっぱりある。
若い頃には思いつかなかった自由だ。
子供のころ好きだったアーティストも夢を生きているうちに夢が現実になっていて、夢を生きられなくて死んだり、夢の中でも地に足を付けて歩いたりしている。
私はずいぶんと即物的になって、お金だとかものだとかに引きずりまわされる毎日で、そこここに思い出みたいなものも落ちていて、それを見るたびに過去にも未来にも引き戻される。夢みたいなふわふわしているものが煩わしくなってしまった。
即物的なのはすごく安心でほっとする。怖いことがない。あったかいとかすべすべしているとか、気分がいいとか湿度が適切だとかそういうことが幸せで十分でまるで動物のようだ。
産むだけなら動物でもできるというが、人間は難産になるように宿命づけられているので出産は動物よりもむしろ大変だ。
そこで私は動物だ。動物だから温かいこと涼しいこと水が清らかであることに幸せを感じてしまう。人間社会の細胞みたいに小さく収まってそしてそれはそれでいいものだと思えるんだ。