c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

きらめく間違い方

 

仕事も相変わらず。

始めたばかりのような緊張感もない。でも慣れたから淡々と教えられる。成績も上がる。上がらなかった子はやめてしまう。ときどき教えていてわからない問題にぶつかると家に持って帰って調べたり教えてもらったりして、またそれを教える。

最近は高校生がメインだから、教えやすい反面、安定しているからとびっきり面白いことにも出会わない。間違え方にセンスがあったり、思ってもみない間違え方をするととても知的好奇心を刺激されるから、そういう間違い方に出会いたい。間違えたときのその考え方の筋道をトレースすると、新しいことを知ったときみたいな興奮がある。

そして、人間に対するリスペクトを感じる。材料がない中で、一生懸命に考えた末のきらめきがある間違いというものが世の中にあって、私はそれを正解よりもずっと愛している。

 

私にはまだ知りたいことがたくさんあって、知りたいと願う気持ちがある。でも、その一方でまだまだ知らないこと、知っているはずに、きちんと理解しつくしていないことがあって、そういうことにも打ちのめされる。とくに、できないことに打ちのめされる。

できないことは当たり前だと言われたのだけど、たぶん、私は、幼い万能感を引きずっていて、できて当たり前だと思っているのよな。

今万能感は粉々になっているけれど、万能感にあふれた時期が長かったせいか、できないことが当たり前だけどそこそこ大丈夫という地点になかなかたどり着けていない。

 

考えていることも、感情に支配されていて、影響されていて、極と極の間は別人みたいになる。

 

自分の間違いにも愛情をもって、きらめきがあると思えるようになりたい。

一生懸命やったうえで間違えるんだから良い間違い方をしているはずだ。

そのためには、客観的になることが必要だ。

ちょっと他人事としてみる。失敗してしまった、どうしよう、と思っていれば、間違いから正解へ進むことはできないし、面白がることもできない。

他人に対しては、失敗や間違いを尊重できるのだから、自分に対してもできるはず。