魂の殺人という言葉に関して
魂の殺人って言葉を男性が使うとイライラする。
甘ったるい感傷や、自己陶酔のための肴にされたようでとても嫌だ。なんかいいこと言っているつもりじゃないの?
こういうひどい現実があるんですよご存じですか、みたいに紹介するときなんか特にイライラする。知ってましたか?じゃなくて、知っているよ。日本の女性はほとんどみんな当事者だよ。
私の傷をお前の素敵な言論の養分にするなよと思う。
当事者が使うならまだしも。
被害の影響が大きいことを示すにしても、こんなドラマチックで、他の人も言っていたけれど、犯人が陶酔できそうな言葉にすべきじゃない。
私は魂の殺人って言葉で、私に何かした人のことを表現したことがない。
私は高校生の時に、「魂の殺人」という題名を知っていた。その後自分が魂の殺人という言葉で表される出来事に遭った。
そして、私は、最初
「魂の殺人ていうくらいだから、回復しないかもしれない」と思った。
でも、ちょっとずつ回復している。
昨日、フラッシュバックして思い出したら、心拍数が160くらいまで上がって、三十分から一時間くらい下がらなかった。何十年もたっても、まだ身体反応がある。
死んだほうがましだと思うし、いつまで忘れることができないんだろうとか、この傷がなければどれだけ自分らしい人生を歩めたんだろうと悔しい。憤死しそう。
たまには生きていてよかった、と思うことがある。
それはたいてい、冷たい空気を吸うときや、自転車に乗って汗をかいたとき、風に吹かれていたり、お日様が沈むときの雲の色だったり、枯れた落ち葉を踏んだとき、透明な青い空気の中できんもくせいが香るとき、体を伴った美しさに触れたときだ。そういう時にはああ生きていてよかった、世界はこんなにも美しいのだと涙ぐむほどだ。
体を使って、何かを感じたとき、生きている感じがする。
そういう感性は殺されていないし生きているし、これこそが私という個性だと思う。
苦しいことが人生において何の意味があるかわからない。
わからないけれど、私にはひどい傷があり、そして生きていて、ごくまれに世界は美しく完璧だと思うことがある。その美しさが、私の傷に起因しているかはどうでもいい。
私には傷があって、傷のない人生を歩んだことはないから、無傷で同じことを思うかわからない。たぶん無傷でも同じように世界は美しいと思うんじゃないかな。
それくらい、私は、完璧に私だ、と思える時がある。
つまり、私の魂は死んでない。
午前三時に思い出して目が覚めてドキドキ心臓が苦しくなっていたらふと「あいつ死んだんじゃないのか」と思った。死んだかもしれない。
なんでかというと消息を聞いていない。大学に入ったところまでは知っている。
けど、そのあと、どうなったか知らない。死んでるかも。
と思ったら、ちょっとほっとした。生きる希望が湧くというほどじゃないにせよ、もう、犯人が死んでいたら、私はちょっと安心する。
死んでないかもしれないんだけどね。確かめることはしないけれど、死んでいるかもしれない、という可能性は私を喜ばせた。
もし、死んでいれば、私はおびえなくていい。
私はかわいそうだしずっとかわいそうだけど、でも、かわいそうなりに自分をかわいそうだと思える余裕もあるし、これから先もかわいそうだとは限らない。
世界のすべてを手にすることもできるかもしれない。
それは、本当に自分のものにするってことじゃなくて、森羅万象の真理を理解して、それを善いものだと思えて、心からこの現世に安らぎを覚えることができたら、それがそうなのかもしれない。
私は彼が死ぬことで安らぎを得ることができるだろう。
死んだことにする、とかじゃなくて、彼が死んでいるかもしれないという可能性。
魂の殺人という言葉で勝手に殺されるのは嫌だ。
私の魂を二回殺さないでほしいよ。
全然生きているし、死にそうだったけれど、そしてまだ死にそうにはなるし、死にたいとは言うけど生きていたいし、生きているのは楽しいよ。