白鳥はかなしからずや海の青空のあをにも染まずただよふ、になれない
毎週お花を届けてもらっている。
今回は白いガーベラとバラとヒマワリとソリダコ。
ガーベラが好きなので嬉しい。
関係ないけど口の中がやけどして皮がむけてしまって痛い。最近ちょっとでも熱いものを飲むとすぐ口の中がただれてしまう。
子供が朝「おんもいい~?」と言って保育園に行きたがっていた。いいー?のあと語尾が上がるのがかわいい。「じゃんぽん」と言いながらジャンプをして靴下をはかせてもらうのを待っていた。
保育園に行く途中、道々に大好きなこいのぼりがまだ飾ってあって、「ちゃかな」と喜んで私に何度も伝えてくれた。
「二歳」というと、指をピースしてくれるようになった。何歳?と聞いたときに二歳ってできるようになればいいんだけど、まだ難しいっぽい。「にしゃい」という。
名前を呼ぶと「あい!」と手を挙げて返事をしてくれるのもかわいい。
最近は、子供の食欲がなく痩せてきてしまっていることが悩み。夜もよく眠れず「てってん、てってん」と私を探して泣いていた。涙でぐしゃぐしゃになりながら腕の中に入り込んでくる体は熱い。
昨日は、「何となく君に待たるる心地して出でし花野に夕月夜かな」という与謝野晶子の短歌を解説した。
こういう恋が私にもあったんだろうか。あったならそれ以上の幸福はないような気がする。
はっとするようなうつくしさだ。
「海恋し潮の遠鳴りかぞえては少女となりし父母の家」
帰りたいけど帰れない。もう帰るところはない。無性に子供の頃が懐かしいと思うようになった。
短歌ってぎゅっと詰まっていて、読むとドキドキする。
歌集を買おうかな。教科書ってこういう良いものがさらっと紹介してあってやっぱりすごい。
このすごさをちょっとでも伝えられたらいいんだけどな。
白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ、とか子供のころはかっこいいこんな風になりたいと思ったものだけれど、今も、美しいとは寂しいということ、自由とは孤独だということだと思う。
子供といるとにぎやかでとても楽しいし幸福なのだけれどそれでもふとしたときに孤独だなと思うことがある。それは、一人でいたときの孤独とは違う気がする。
自分が自分でなくなっていて、役割の中で役割を全うしている中でそれは幸福なのだと思いつつも、そこからはみ出たいと願う自分の余白みたいなものが失われていくという感覚だ。
たった一人でいても、自分というものは見えなくなってしまう、それは、境界を引くものはいつでも他者の視線であるからだからだ。かといって、大勢の中に紛れ込んで自分をごまかしていてもやっぱり自分の輪郭はぼやけてしまう。
合わせようとしていてもにじみ出ていくものが本物の自分だと言っても、そこまで自分を研ぎ澄ませていくことは難しいと感じる。
今の私には、文章を書くことが、自分が自分であることをはっきりさせるための手段だ。幸福が自分をぼやけさせていくような気がする。
自分の心の動きや感情を切り取ってみせることで、自分が書いている途中でそれを読むので、自分がどんな人なのかわかっていくような気がする。
ずっと書いていけば、もっと鮮明になるのかもしれない。
私は染まってしまい、白鳥になれはしないのだけれど、代わりに白鳥になれないそのさみしさがある。
この短歌を歌った人も、きっと、白鳥のように気高くはいられなかったんじゃないだろうか。だから、悲しくはないんだろうかと問うているんじゃないだろうか。あのように生きていくのは美しい、自分はそうはしなかった、そして、そのどちらの道を選んだとしても生きていくことはさみしい。
生きていくことは失うことの連続で、後悔ばかりで、とてもさみしい。得る嬉しさは儚く、失ったさみしさばかりがいつまでも後を引く。私はそういう風に作られている。さみしさを抱えているから、自分が誰かわかる。自分は何者にもなれないけれど、このさみしさを抱えている間は自分が自分だと感じる。私は愚かでときどき賢い。その愚かさを許せるくらいには。