c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

子供の食が細い

子供があまり食べてくれません。だから小柄です。

大きく育ってほしいので食べてほしいです。

なので、昨日は栄養士さんに相談に行きました。

結構緊張しました。

内容は、食事の時間が早すぎるから、空腹ではなく、意欲がわかないかもしれない、ということと、繊維を分断する形で切る、一口をかじり取る練習をするために、大きめで出す、たんぱく質を増やす、ということです。

うちは、夕方から仕事なので、食事の時間がものすごく早いんですよね…。

なんと四時なのです。

四時に夕食を食べて、七時にバナナとみかんを与えていました。

で、昨日は夕食を七時に食べさせましたけど、食べませんでした。

空腹すぎて号泣して、でも、ごはんはいやいやするので、地獄みたいでした。

それでも最初が肝心だと思って、二時間はお互い耐えたんですけど、もうどうしてもかわいそうになってバナナを上げました。バナナをにこにこで食べていたので、にこにこしてバナナ食べるならバナナでいいかなと思いました。

 

食事の時間が苦痛になるとあまりよくないと言われて、それはそうだなと思いました。

提案は空腹じゃないときに食事をするのは苦痛だろう、ということだったのだけど、夕食の時間をずらすのもそれはそれで苦しいみたいでした。

一人で食べるのは楽しくないですもんね……。

 

二歳児の胃は400グラム入るくらいの大きさらしいです。バナナが100グラムくらい。

だから、300グラム食べさせたらよいことになります。

 

牛乳も一日400㎖くらい飲ませたほうがいいということで、飲ませたいんですが、どうもお水やお茶のほうが好きみたいで…。

食事をお茶で流し込むのはよくないのですが、咀嚼量が少ないので、唾液が出ず、口の中で食べ物がまとまらないので、ごっくんできないみたいです。

 

というわけで、四時にみんなでご飯を食べて、七時にバナナやチーズ、みかんを食べさせるというスタイルでしばらく行こうと思います。

あと、お肉もほぐさないで我部っと行けるような柔らかさまで煮たり、リンゴをスライスして食べさせたりしようかなと思います。

 

 

しゃくし定規にしてお互いが追いつめられてもよくないと思うので、変則的ですがそれでいこうと思います。

もう、四時で慣れているのかもしれません。

 

バナナを食べるようになってから、100グラムだけども体重が増えたので、それでやってみます。

レビュー【マンガ おはなし数学史】

 昨日はマンガおはなし数学史を読みました。

昨日今日とツイッターで紹介されていた本を読んでました。

 

 これは、数学史を完結にまとめた本です。

内容は簡潔ですが、概念が難しいところがあります。でも、読み飛ばしても意味が分かるようになっています。読み飛ばさず、きちんと読めば意味も分かります。

この本を読むと、「この考え方はどういうときに使えば有用なんだろう?」というな、数学を役に立てる場面を考えられるようになります。

また、数学史ですから、歴史の復習にもなります。

 

古い感じの絵柄が好印象です。お勉強マンガって感じの絵で私は好きです。

後半はトポロジーなど現代の数学についても書かれています。

 

私は子供のころ、どうして、1+1は2になるのか、時空をまたがる巨大な三角形の内角の和は180度にならないんじゃないかと思っていたのですが、それを大学に行ったときに数学者に質問できたことで、数学が好きになりました。

数学は親しみやすく、SFチックで夢がある学問です。誰でも普段から数学をしています。

子芋の煮っころがしを作ったときに一つだけ箸を指して、煮えているかどうかを確かめるのは、統計を利用しているなどの例示がわかりやすいです。

他の人にも数学を好きになってほしいなと思ってこの本を紹介します。

零の発見―数学の生い立ち (岩波新書)

零の発見―数学の生い立ち (岩波新書)

 

 この本もわかりやすくてよかったです。これは、大学の時の先生が勧めてくれた本です。女性の数学者の先生でした。教養の授業でその時にはトポロジーについて学びました。

私は、センター数学をサラサラ解けるわけではないですが、それでも数学が好きなのは、あの時の先生との出会いがあったからだと思います。

その先生は、若い頃には学問ができればそれでよかったし幸せだったけど今はお金も大事だったよねと微笑みながら話していました。教わることができて幸せでした。素敵な先生でした。お名前を失念したのが残念です。

魂の殺人という言葉に関して

魂の殺人って言葉を男性が使うとイライラする。

甘ったるい感傷や、自己陶酔のための肴にされたようでとても嫌だ。なんかいいこと言っているつもりじゃないの?

こういうひどい現実があるんですよご存じですか、みたいに紹介するときなんか特にイライラする。知ってましたか?じゃなくて、知っているよ。日本の女性はほとんどみんな当事者だよ。

 

私の傷をお前の素敵な言論の養分にするなよと思う。

当事者が使うならまだしも。

 

被害の影響が大きいことを示すにしても、こんなドラマチックで、他の人も言っていたけれど、犯人が陶酔できそうな言葉にすべきじゃない。

 

私は魂の殺人って言葉で、私に何かした人のことを表現したことがない。

私は高校生の時に、「魂の殺人」という題名を知っていた。その後自分が魂の殺人という言葉で表される出来事に遭った。

そして、私は、最初

「魂の殺人ていうくらいだから、回復しないかもしれない」と思った。

でも、ちょっとずつ回復している。

昨日、フラッシュバックして思い出したら、心拍数が160くらいまで上がって、三十分から一時間くらい下がらなかった。何十年もたっても、まだ身体反応がある。

死んだほうがましだと思うし、いつまで忘れることができないんだろうとか、この傷がなければどれだけ自分らしい人生を歩めたんだろうと悔しい。憤死しそう。

 

たまには生きていてよかった、と思うことがある。

それはたいてい、冷たい空気を吸うときや、自転車に乗って汗をかいたとき、風に吹かれていたり、お日様が沈むときの雲の色だったり、枯れた落ち葉を踏んだとき、透明な青い空気の中できんもくせいが香るとき、体を伴った美しさに触れたときだ。そういう時にはああ生きていてよかった、世界はこんなにも美しいのだと涙ぐむほどだ。

 

体を使って、何かを感じたとき、生きている感じがする。

 

そういう感性は殺されていないし生きているし、これこそが私という個性だと思う。

苦しいことが人生において何の意味があるかわからない。

わからないけれど、私にはひどい傷があり、そして生きていて、ごくまれに世界は美しく完璧だと思うことがある。その美しさが、私の傷に起因しているかはどうでもいい。

私には傷があって、傷のない人生を歩んだことはないから、無傷で同じことを思うかわからない。たぶん無傷でも同じように世界は美しいと思うんじゃないかな。

 

それくらい、私は、完璧に私だ、と思える時がある。

 

つまり、私の魂は死んでない。

 

午前三時に思い出して目が覚めてドキドキ心臓が苦しくなっていたらふと「あいつ死んだんじゃないのか」と思った。死んだかもしれない。

なんでかというと消息を聞いていない。大学に入ったところまでは知っている。

けど、そのあと、どうなったか知らない。死んでるかも。

と思ったら、ちょっとほっとした。生きる希望が湧くというほどじゃないにせよ、もう、犯人が死んでいたら、私はちょっと安心する。

死んでないかもしれないんだけどね。確かめることはしないけれど、死んでいるかもしれない、という可能性は私を喜ばせた。

もし、死んでいれば、私はおびえなくていい。

私はかわいそうだしずっとかわいそうだけど、でも、かわいそうなりに自分をかわいそうだと思える余裕もあるし、これから先もかわいそうだとは限らない。

世界のすべてを手にすることもできるかもしれない。

それは、本当に自分のものにするってことじゃなくて、森羅万象の真理を理解して、それを善いものだと思えて、心からこの現世に安らぎを覚えることができたら、それがそうなのかもしれない。

私は彼が死ぬことで安らぎを得ることができるだろう。

死んだことにする、とかじゃなくて、彼が死んでいるかもしれないという可能性。

 

魂の殺人という言葉で勝手に殺されるのは嫌だ。

私の魂を二回殺さないでほしいよ。

全然生きているし、死にそうだったけれど、そしてまだ死にそうにはなるし、死にたいとは言うけど生きていたいし、生きているのは楽しいよ。

子育てしていると無趣味になるけど、頑張っている

やりたいことが思いつかない。

一時間くらいまとまって暇になるんだけれど、その時間でやりたかったことをやろうと思っても、肝心なやりたいことが思いつかない。インプットがないからかアウトプットもない。

 

もともと趣味と言えば、読書と散歩とお茶とおしゃべり、くらいなものだったので、趣味と言えるほどなのかなあ。映画も月四本から八本観ていたかな。

 

今はゲームと勉強とブログかな。

勉強はそんなに好きじゃないのに毎日している。なんでだろう。やっていても苦しいばかりで見返りが見えない。昨日化学と日本史を勉強して途中でやめて寝た。

 

ゲームも子供のお昼寝の間にやるには音が出るから難しい。今は勉強するには疲れすぎている。だからブログを書いているけれど、特に書きたいこともない。

以前は社会や自分のことに関心があって、いろいろ書けたけれど、子供のことはあまり書く材料にしたくない。子供のプライバシーを守りたいので、何をしたとか何を言ったかとかも、一般的にするようなことだけにしておきたい。

 

秋冬には手芸をしていたけれど、今は針も糸も毛糸も出せないしレザークラフトもできない。

こういう風に無趣味になると、子育てにも悪影響がありそう。自分=子供になっちゃったりしてさ。今は小さいからいいけれど。

 

 

昨日は疲れすぎて鬱がひどくなって、自分をたたいてしまった。そういうのを子供に見せるのはよくないとわかっているのにどうしても止まらなかった。

何度ももうこういうのはやめよう!と決意しているんだけど疲れるとどうしても自分が馬鹿でダメだから死ねばいいと思って自分をたたいてしまう……。

 

それで気分転換に温泉旅行に行こうかなと思って、夜調べたら空きがあったので、明日の朝空いていたら予約しようと思っていたけれど、朝になってみたら、やっぱり予約は埋まっていた。旅館に泊まれば夕ご飯のために考えたり外食のために移動したりしなくてよかったんだけどなあ。

旅館に行く当てが外れたので、代わりにステーキを食べに行く予定だ。

 

家族ができてから、ネットよりも現実世界がにぎやかになったのはよかったけれど、同じくらい疲れるし気も使う。全然健全なんだけど、苦しい時もある。

 

私は去年の今頃から意識してネットから離れようと思っているけれど、まあまあうまくいっている。ネットしすぎると後悔するんだよね。人生がなんのためにあるんだろうと思って。外で遊ぶためにあるからだなのに、家の中で無駄に過ごしてしまうなあと。

 

今は公園で遊ぶのが楽しい。特に滑り台。子供と一緒に滑ったり、落ち葉を集めたり、踏んだり。ドングリを拾うこともあるし、風がびゅーびゅーいうのを聞くのも楽しいし、子供の小さいおててをつなぐのも楽しい。子供はなぜか私のことをてえてえと呼ぶ。たまに「ま・まー」と呼ぶのだけど、てえてえと呼ぶことが多い。なんでかわからない。「てってつなぐよ」って言って外に行くから?

 

子供はちょっと前まで雨のことを「めめ」といっていた。でももういわない。帽子のことを「ぷーきー」と呼んでいた。でも今日からぼうちになった。りんごをこーきーと呼んでいた。でも「いーご」になった。みかんは「いかん」。語彙が増えて発音も正確になりつつある。かわいかったのにどんどん大きくなってしまう。でもまだ小さい。かわいい。毎日かわいい。

 

子供を見ているのは趣味と言っていいかもしれない。いつまでも眺めていたい。

 

今は子供が寝ているからパソコンを触れるけれど、子供が起きていたら「あっこ」といって抱っこをせがみ、膝の上にのってキーボードをぱちぱちしたがる。

マウスも触っていろいろすると、知らなかったキーの組み合わせで知らなかった機能が動いていることもあってびっくりする。

 

そうだ、今はやっているのはpokoyo。超かわいい。たくさんあるから英語のまま聞いて、ちょっとでもリスニング力を上げようともくろんでいる。子供がこれを大好きで何時間も観ながら遊んでいる。一緒に歌ったり踊ったりしている。

www.youtube.com

 

あとはなんだろうな。

昨日は化学の酸化還元の反応式の復讐と日本史の平安時代までを復習していた。

全然できるようにならないんだけど。それでできないと思って世界が終わるくらいの気持ちになったりするんだけど、今文字にしてみれば、結構頑張っているんだよね。

頑張っているから悲しくなるし悔しいんだよな。

 

そう考えると隙間時間にPSVRしていたり、ブログしたり、勉強していたりするから自分で思っているよりは頑張っているのかもしれない。ドラマもできるだけ英語字幕と音声英語で頑張ろうとしているし。今こうしてブログ書いていてわかったけど。

 

 

今リアルタイムで外部化は大事だなと思った。

さっきまで悩んでいたけどバカみたいな気持ちになった。

悩むことないじゃんがんばっているじゃん。文字で外に出してそれを見ながらまた文章を書いていると、ほとんど他人を応援するような気持で自分を眺めることができる。

 

自分はそんなに嫌な奴でもないし悪い奴でもないし、いい人でもないけどそこそこ頑張っている。勉強していて偉い。知らないことを知ろうとしていて偉い。わからないことがあるのを認めるのは、つらいのに。

自分をコントロールできてないことが苦しいけれど何とかコントロールしようと毎日努力していて偉いし、それが徒労に終わって打ちひしがれても死んでないから偉い。

 

毎日日記をつけて、面白かったことやよかったことを記録することも三年目に入っている。鬱行動記録アプリも一年続いた。

病気をコントロールして、病気に支配される人生じゃなくて、主体的な人生を歩むために努力している。

栄養や睡眠にも気を付けて、トリガーになるものを避ける努力をしているし、以前みたいにめちゃくちゃなこともしていない。鬱に入ったり、発作が起きても、生きることをあきらめてない。すごく頑張っているよ。

当たり前に毎日していて、でも無駄だなと思うし、毎日続けることはしんどいけど、でも続いているってことに意味がある。

いつか、躁鬱をコントロールして、病気を生きるんじゃなくて、自分を生きられるようになりたい。自分と病気は分けられないけれど、少なくとも後悔しないようにしたい。

きらめく間違い方

 

仕事も相変わらず。

始めたばかりのような緊張感もない。でも慣れたから淡々と教えられる。成績も上がる。上がらなかった子はやめてしまう。ときどき教えていてわからない問題にぶつかると家に持って帰って調べたり教えてもらったりして、またそれを教える。

最近は高校生がメインだから、教えやすい反面、安定しているからとびっきり面白いことにも出会わない。間違え方にセンスがあったり、思ってもみない間違え方をするととても知的好奇心を刺激されるから、そういう間違い方に出会いたい。間違えたときのその考え方の筋道をトレースすると、新しいことを知ったときみたいな興奮がある。

そして、人間に対するリスペクトを感じる。材料がない中で、一生懸命に考えた末のきらめきがある間違いというものが世の中にあって、私はそれを正解よりもずっと愛している。

 

私にはまだ知りたいことがたくさんあって、知りたいと願う気持ちがある。でも、その一方でまだまだ知らないこと、知っているはずに、きちんと理解しつくしていないことがあって、そういうことにも打ちのめされる。とくに、できないことに打ちのめされる。

できないことは当たり前だと言われたのだけど、たぶん、私は、幼い万能感を引きずっていて、できて当たり前だと思っているのよな。

今万能感は粉々になっているけれど、万能感にあふれた時期が長かったせいか、できないことが当たり前だけどそこそこ大丈夫という地点になかなかたどり着けていない。

 

考えていることも、感情に支配されていて、影響されていて、極と極の間は別人みたいになる。

 

自分の間違いにも愛情をもって、きらめきがあると思えるようになりたい。

一生懸命やったうえで間違えるんだから良い間違い方をしているはずだ。

そのためには、客観的になることが必要だ。

ちょっと他人事としてみる。失敗してしまった、どうしよう、と思っていれば、間違いから正解へ進むことはできないし、面白がることもできない。

他人に対しては、失敗や間違いを尊重できるのだから、自分に対してもできるはず。

美醜と雑誌

http://kutabirehateko.hateblo.jp/entry/2019/12/18/130102

(id:kutabirehateko)さんのこの記事を見て、おー、こちらは買いましたよ、と思って便乗します。内容はあまり関係していないけれど。

私は今月オトナミューズとVERYを買いました。

オトナミューズは全然参考にならないわけのわからない服がわけのわからないコーディネートでわけがわからない勢いのまま掲載されていてコラムも面白いので時々買っています。

 

 

 

 

私はこんなだけど、ファッションのセンスがないことにも、コンプレックスを持っているし、雑誌を見ても分からないことが多い。てか、わからなくていいちょっとよくわからないファッションを混ぜているよね明らかに。オトナミューズなら肌みせニットとか。滝川クリステルさんがカバーモデルになる年齢層での雑誌だよ????見せたかったら魅せていこうということなのかもしれないが……。冬は寒くない?まあいいんだ雑誌は夢の世界だから……。

服で参考になるのはバイラとか、VERYかなやっぱり。コラムがおもしろくて、ついオトナミューズを買いがちだけど……。

otona MUSE(オトナミューズ) 2020年 1 月号

otona MUSE(オトナミューズ) 2020年 1 月号

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2019/11/28
  • メディア: 雑誌
 

 (滝川クリステルさんである)

 

オトナミューズはどこに着ていくのかわからないドレスの特集があるかと思うと、ジェラードピケのパジャマでどこまで外出できるかというコラムがあるふり幅の大きさが魅力だ。

今回のコラムで良かったのは、真っ黒なブーツだけを集めている人がどういう風に違うブーツなのか、ということを散々語ったのに、最後のほうで、でも、基本は三種類しか買っていないとか、そういうことを語っているのが今回は気に入った。

毎日黒いブーツだけど、使い分けるの

全部、違うの!

私もコレクションしがちなのでわかる。

モデルさんの顔は、ほりがふかく、華やかな美人が多い印象だ。

 

そして、VERYを買いました。雑誌を二冊買えた。

 

 

VERY(ヴェリィ) 2020年 01 月号 [雑誌]

VERY(ヴェリィ) 2020年 01 月号 [雑誌]

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/12/07
  • メディア: 雑誌
 

 

今月号のVERYで私の印象に残ったのは、カバーモデルのみっこさんのインタビューだった。

若くなくなって世代交代の波に押されて焦ったことや、自分を変えていかないと生き残れないこと。大舞台での喜び。おじけづいたこと。

 

私はモデルのような顔が整った人は、人生も順風満帆だと思いがちなところがある。そんなわけないし、そういう妄想は実際のモデルさんにとってひどいことだと思うのだが、自分で自制していないと自動的に「美人だなあ、いいなあ」と素朴に思い素朴さにうらやましいと思い、そして、そういう素朴さって邪悪だなと思う。それって、結局人間扱いしてないんだよね、美人を顔だけで判断して想像して人間性を見てない。

 

私は自分の目が小さめなんではないか(多分普通)という疑惑にとらわれていて、体調が悪いともっと目が大きかったらよかったのに、と思ってしまう。

今人生の駒が進んできて、目が大きい小さいどころじゃないことがいろいろあるのに、人生が行き詰まると「目が大きかったら何もかも解決するのに」と現実逃避してしまう。

 

そういう感じの時に、VERYとオトナミューズはうちにやってきた。

 

 VERYに載っているモデルさん、読者モデルさんの顔は、もちろん美人だけど、華やかな顔立ちの美人ばかりではなくて、よくよく見ると「あれこの人、目がすごく大きいわけじゃないな」という人もいる。親近感がわく。目が細い美人もいる。そうか目が小さい美人もいるよねと思ってちょっと元気が出る。

白眉な特集ではルッキズムについての特集があったことだ。美容とファッションの雑誌でそれなりにエッジが効いている。まあ今時それくらい意識が高くないとやっていけないのかね。Twitterかよって思った。

山崎ナオコーラさんの「自信のあるブスがもっと認められる世の中に」が特によかった。ブスと言われて傷つけられていること、美人になりたがっているブスばかりではないこと、

私に自信を無くさせようとしているよね、と社会に言いたい。社会は、ブスが自信を持たないことを望んでいるし、すみっこに行ってほしいと思っています。

自信や自尊心は、コツコツやることでしか持てないと感じています。悪口を言われなくなったから自信が回復する、ということはない。褒められて気分が上がっても一時的だし不安定なもの。

というのがよかった。

 

田中俊之さんの男性から見てよいとされる見た目という価値観は今も残っている。だから、ツライの

昔から言われる女の子らしさや可愛さの価値観を真に受けて育つと、すぐ人生の壁ができてしまう。本来これは女性にとって不利益な情報なわけです。

も、まあ普通の意見だなと思う。この人は、男性学の人らしい。

私はドライヤーが嫌いだけど、ドライヤー十五分かけたら、四日で一時間、一年で90時間以上じゃねーかと思う。髪をはねさせないために、一年で90時間は長い。身だしなみの範疇だといえばそうなんだけどね……。

髪にドライヤーをかけるのはともかくとしても、他の美容に一日十五分費やすとき、楽しければいいけれど、楽しくなかったら90時間になるもんなー…。その分をもっとやりたかった違うことに費やせていたなら、大きく差がついてしまう時間だ。

 

私は、身近な人にはかわいいし美人だよと言われても、「そんなのでブスが調子乗ってはいけない」「こんなにブスなのにわかってない」と思いがちだ。

ブスだから劣っていると考えている。ブスにブスゆえの物語を妄想して、能力が低いんじゃないかと紐づけてしまっている。ブスを普通の「いろいろな側面のある人間」としてみていないから、自分で自分のことを苦しめているのだ。

じゃあ、もし自分が美人だったらというと、上記の理由で他人ですら人間扱いしていないのだから、ブスでも美人でもやっぱり、それにとらわれている。そういう風に美醜で分けられるようなものだと自分のことを思っている間は、自分を人間だと思えていないってことだ。人間って本来、そういう乱暴な手つきで分けられないもののはずだから。

 

私は自分のことを普通に人間だと思っているけれど、でも、やっぱり、自分のことを美醜で分けられる何かと思っている節がある。美醜で分けられる何かと考えているうちには、ちゃんとは自分のことを人間だと思えていない。

大体の人は、男性のことを美醜であまりわける発想がない。女性を見るときにだけ美醜の判断をしてしまう。そういうところが自分でも嫌なんだけれど。女性は美しくかわいく小さくあるべきものという考え方が充満している。

 

雑誌をみていると、自分らしく強くありたい、というメッセージと、その一方で美しくありたいというメッセージが混合していて、読んでいると混乱している。

その二つは、両立するんだろうか、と思える。

美しさを求める文化はいとおしいけれど。そして、自分らしく強くあるために美しくありたい、ということもあり得るのだと思うけれど。

男性が自分らしく強くありたいから美しさを求めているかっていうとそうじゃないよね。

男性が自分らしく強くありたいから美しい女を求めているっていうのはよく見る。美しさの外部委託。金を独占して美しさと慰安を購入するのだ。そして、金を自分で十分に稼ぐ手立てから女性を弾き飛ばすのだ。そうしないと美しい女が手に入らなくなるから。

逆はないから。

 

「男と同じように、人間だし、権利を持っている人間だ」とナチュラルに思えるかというとそうじゃない。生きていれば、そういう風に思えない現実がごろごろしていて、「人間だけど、男性とは違う」と感じて、その気持ちが体中にしみこんでいって、どんどん惨めになる。

仮に、自分は絶対美醜の枠にはまらない人間だ、と思えたところで現実にはそうじゃない。そこは戦わないと。周りは勝手に見てくる。「私は気にしない」と言って個人化してしまってもいいのだけど、それはうまく社会に適応しちゃっただけで、社会を変えられていない。ほかの人は気にしているし、一人だけ大丈夫だからって他の人を見捨てていいのかって。

そして、戦う対象は社会はもちろんだけど自分もそう。自分の中にある、女性を低く見る視線と戦わなくてはいけない。低く見る視線というのは、女性を美しいかそうじゃないか、把握しようとしてしまう部分だ。

 

 

女は美醜を判断される。私は自分のことを美人かブスか判断しようとしているので、自分自身を人間扱いできていない。

男性は美醜を判断されない。されないというと語弊があるか。女性に比べて美醜を判断される余地が少ない。例外はあるだろうけれど。

たぶん男性は、自分が美しくなりたいという焦燥感に駆られて食事ができなくなったりしない。自分が美しいかどうかにそんなに人生の比重が大きくない。

もしくは、自分が美しくなくても美しい女を手に入れられたらそれでいいと思っている。それが勝利になる。

女は、自分が美しくなければいけないと思っている。ゴールはないし、年を取っていくのでゴールは遠ざかる一方だから苦しい。

 

美醜に関しては、社会は、すごくゆがんでいる。

 

 

 

動物は水が清らかなことに幸せを感じる

「りーご、どじょ(りんごをどうぞください)」と言って子供はリンゴを欲しがるので、私はむいてやることができる。そういう自由はある。「おいっち」(おいしい)と言ってにこにこしたり集中して口をとがらせる子供を見ることもできる。頬は丸くすべすべしている。柔らかくて温かい。湿度が高い自由だ。

 

 

まだ、何者かになってから死にたいと思っている。こういうのは、乾いた自由だ。孤独な自由。身動きが軽いから、高く舞い上がることができる。

 

何者かになりたいなんて人の前では恥ずかしくてもういえる年齢じゃないけれど、でも、どこかで、死ぬ前までには何者かになって死ぬんじゃないかと思っている。人生と寿命は長いわけだから。

なんにもないってこと、そりゃーなんでもありってこと、って歌にもうたわれているけれど、

私は、もうなんにもないわけじゃなくなってしまった。

何者かになるためには何かを持っていたらもうなれない。

乾いた自由には軽さが必要だから、荷物を持っていると重たくなってしまう。

重くなると飛べなくなる。飛べなくなると自由はない。自由なき場所には挑戦もない。

優しさも邪魔になる。

 

 

けれど、今なら私は「りーごどじょ」の世界のほうが自由だと思ってしまう。見つめていたいものを見ている自由を感じる。

 

何か持っていると怖くなっていろいろ考えてしまう。

自分のことだけならできることでも、守りたい人を守れなくなるのは怖いなと思う。

そして、私は飛ぶよりも地上を這いずり回って目の前にあること(三角関数の問題を一問解くとか、テーブルを拭くとか)をいつしか選んでいたんだ。

 

選択は、今決めるといった種類のことじゃなくて、長い時間をかけて、自分がそういう流れになるようにし続けた結果、最後に選択肢として現れるものだから、選択肢が現れた時点では既に選択してあるようなものだ。選択の連続で今流れ着いた。

 

毎日何も不自由ない。困ったことや懸念材料不安はあるけれど、一つ一つ乗り越えていけばいい、そういう見通しも立つ。

そういう見通しが立って未来のことが予測できる自由があることを知った。

先のことがわからないからむやみやたらに両手を振って前方や後方、右や左に何かないか確かめながら進まなくてもいい。ちゃんと遠くの音も拾える。

予測できるってことは、ありがたい、心構えができる。そして、その分、自分の行動も制限される。

制限されるのだけどそれは余裕になるからそこから生まれる自由もやっぱりある。

若い頃には思いつかなかった自由だ。

 

 

子供のころ好きだったアーティストも夢を生きているうちに夢が現実になっていて、夢を生きられなくて死んだり、夢の中でも地に足を付けて歩いたりしている。

 

私はずいぶんと即物的になって、お金だとかものだとかに引きずりまわされる毎日で、そこここに思い出みたいなものも落ちていて、それを見るたびに過去にも未来にも引き戻される。夢みたいなふわふわしているものが煩わしくなってしまった。

即物的なのはすごく安心でほっとする。怖いことがない。あったかいとかすべすべしているとか、気分がいいとか湿度が適切だとかそういうことが幸せで十分でまるで動物のようだ。

産むだけなら動物でもできるというが、人間は難産になるように宿命づけられているので出産は動物よりもむしろ大変だ。

そこで私は動物だ。動物だから温かいこと涼しいこと水が清らかであることに幸せを感じてしまう。人間社会の細胞みたいに小さく収まってそしてそれはそれでいいものだと思えるんだ。