c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

不幸でいると見下されるが、不幸が通常モードだ

不幸であると公言すると、見下される。

謎だ。

不幸でいる人を見る。そして、自分はそうじゃないと思う。自分は幸せだということを確認する、という流れなんだろうか。

 

もちろん「幸福な人」が、「不幸な人」にマウントを取るのか、というと、謎が残る。

 

マウントを取りたいと思う、その欲望について、無関心であったり、無知であったり、無感覚であったりするだけに見える。考えが足りないというのも、それもまた、意識せざる不幸だと思う。

 

嫌なことを言われた人に、「嫌なことを言った人は幸せじゃないんですよ。幸せじゃない人は放っておけばいい」という人もいる。嫌な人が幸せかどうかと、自分が嫌なことを言われて嫌な気分になることとは関係ないと思うんだけど。

これも、不幸せな人を見下すということなんだ。

 

嫌な人を嫌だから軽蔑する、ということと、嫌な人だから不幸せに違いない、だから見下す、ということでは「不幸」が挟まっている部分が違う。

 

とても嫌いな感覚だ。

 

わたしは自分を不幸だと思う。脳の障害で、幸せを感じることが難しい。セロトニンを吸収する部分を阻害することで、うつ状態になることを防いでいるんだから、自然な状態では、状況がどうであれ、幸せだとは感じられない。幸せだと感じられない障害なので、わたしは「不幸である」のだ。

 

苦痛はたやすく不幸と結びつく。苦痛に満ちている生を生きているが幸せだという人は、立派だが、珍しいだろう。

 

 

それは、心の持ちようではどうしようもない。心が脳にあるのか体にあるのか、おそらく両方なんだと思うけれど(体が感じる快がもたらす幸福はある)、わたしはどちらの感覚もうまくいっていない。発達障害は、脳の指令と体の感覚がちぐはぐな性質を持つからだ。

 

わたしの状況をうらやむ人はいる。でも、うらやむ人がいるからわたしは幸せなはずだ、という風に、わたしは考えない。

わたしの感覚と、考え方、脳の欠陥、そういうものが一致していないからわたしは苦しい。それは石の力ではどうしようもない。精神疾患というのは、体の問題だ。苦しみが、思考にも波及して、わたしは苦しい考え方をする。

それは、生得的なものだから、どうしようもない。前向きな考え方は疲れる。前向きな考え方は、「あなたは今何かが欠けている状態なので、進んで、それを満たすために努力するべきだ。そして、努力したらその欠けている部分が満たされるはずだ。欠けている状態でいるのは、努力が足りないからだ」というメッセージと裏表だ。前向きさは、努力を要求する。そして、わたしは努力ではどうしようもない部分が苦しい。

 

苦しいのだからそれは不幸だといっていい。

でも、わたしは見下される存在じゃない。

わたしがなにか悪いことをしたから、因果応報で、苦しいわけでも不幸なわけでもない。

ただ、世界となじめなかっただけだ。相性が悪かった。

 

 

そういう人は、存外に多くいると思うのだけどどうだろうか。

理想とかけ離れた生活をして、なりたい姿になれないともがいている人。

理想を捨てて、生活を愛せればいいのだけど、なかなかそうは思えない人。

理想なんて持てないほど、生活が苦しい人。

それらの人は、なにか悪いことをしたから苦しいんだろうか。

わたしはそうは思えない。見下される理由は一つもない。

 

見下していいのは、嫌なことをされたり、嫌なことを言っている人(自分に向けているわけでなくても)をみたりしたとき、ああ嫌だなと思い、こうはなりたくない、と思ったときじゃないだろうか。

見下すこと自体が悪いとも思えない。そう思わないと処理できないような悪意や、考えなし、自分たちの状況への配慮不足などがあるから、思うだけなら、悪くない。誰でも、すべての状況について、塾講師ながら考えるのはできない。してしまう人もいるけれど(わたしはしようとしてしまうけれど)、それはちょっと病的だ。それも不幸の源だ。

 

 

種差別を主張する人、反出生主義を主張する人、トランスジェンダリズムを主張する人からすると、わたしは差別者だ。

それらの考え方の筋道が間違っているとは思わないし、ある意味では正しい。

ただ、私から見ると、抜け落ちている感覚、善悪、生活する上での必要性が書けていると思う。現実問題、多様な人間がいるわけだから(その中には心身に傷を負った人、病気の人、障害を持つ人、幼い人などもいる)、すべてに受け入れられるのは不可能だ。

そして、わたしは、それらと違う考え方を持っているから、わたしの考えの中では、わたしは差別者ではない。だから対立する。

 

 

対立は悪いことではない。すべての生き物同士は対立する。食べるもの食べられるものの利害は対立する。同じ種でも、同じ縄張りでは共存できないから対立する。

人間は助け合うことで生き延びる戦略を取ったから、同じコミュニティで生きる人同士は、助け合えるけれど、違うコミュニティで暮らしている人とは対立する。それは悪いことじゃない。

 

 

不幸であることは自然な状態だ。誰もがどこか欠けている。

資本主義社会において、広告は、欠けているものを示し、その「欠け」を補う商品を購入すればあなたは幸せになれるとささやく。そして、広告を見ない日は、私たちにはない。

だから、生きているだけで、私たちは欠けており、それ故に不幸なのだと突きつけられ、告発されている。呼びかけられている。あなたは不完全なのだと。

それでも、なお、幸せだと思える人は、それはとても生きる力があって強い。それは誇れることだ。でも、当たり前でもない。

 

 

資本主義社会、広告が、人の不幸を前提にして成り立っているものだから、今の世界に生きていて、幸せでいることは難しい。

誰もかれもが不幸なのだったら、不幸を理由に見下すのはやめたい。