c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

警戒する自由をくれ

以前から、暴力的な犯罪に遭うと、電車に乗れなくなったり、エスカレーターで後ろに人がいると冷や汗が出たり、エレベーターに乗ると閉じ込められたと感じて恐ろしくなったりするということを書いている。

家にいても、何度も施錠を確認したり、窓を割られるイメージがわいて、部屋にいても動悸が止まらなくなったりした。そういうことを書いてきた。

 

そういう過程で、「自衛しろ、それくらい誰でもやっているから当たり前だ」と言われてきた。

 

犯罪に遭ったことがなくても、男であっても(わたしに加害することを選んだのは、女だからだと加害者は言っていた)、病気でなくても、エスカレーターに乗るとき、後ろに人がいないか気になったり、電車に乗れなくなったり、エレベーターに乗れなくなったり、カーテンを閉め切ったりして暮らしているんだろうか?

 

わたしの周りの人はおびえないで暮らしているように見える。

道を一人で歩いたり(わたしは今も家の周りを五分くらいしか一人では歩けない)、夕方になっても外出できたり、人影や話し声におびえたりせず、人の集まる場所に行って、買い物をしたり(これもわたしは一人でできない。まれにできる時もある)、しているように見える。

 

私は、事件に関連する場所であるコンビニに長い間入れなかったし、その場所に似ているスーパーマーケットも同じだった。

 

そういう人もいる、お前だけじゃない、自意識過剰、被害者意識、被害者面(全部言われたことがある)って反論が来るだろうけれど、そうじゃなくて、みんながみんなそういう風に暮らしているわけじゃない……と言いたい。

 

多くの女性は、犯罪に遭ったことがなくても、ヒヤッとした思いをすることがあって、一人では入らない場所があると思う。遭わないように気を付けているばしょがあるだろう。

 

そういうことを「その属性の人を警戒するのは差別だ」と言われてしまうのは、厳しい。

自衛しろという人がいる一方で、警戒するな、とも言われる。警戒するのは差別だ、にまで、最近は言われる。

 

差別をしたくないから警戒することをあきらめる人もいるだろうし、逆に、警戒することを選んで、差別者と言われることに甘んじる人もいるだろう。わたしは、校舎だったけれど、今は、警戒することは差別ではないと思う。

 

 

警戒することで、相手から距離を取ることはまず差別じゃない。人には距離を選ぶ自由があるから。

そして、相手に不利益な取り扱いをすることがあっても、それが必ずしも差別にはならない。こちらの利益を主張すること(利益に沿って行動すること)が、相手の利益を損ねたとしても、すぐに差別になる場合ばかりではない。

 

法律と常識はすごく近いところにある。常識でも法律でも、怖がって、人を警戒して距離をとることは、もちろん禁じられてはいないし、自分の利益になることを主張すること、行動することは認められている。もし、著しく、人の利益を害するならば、争いが生まれるけれど、争いが生まれたからイコールその人が悪いわけでもない。

 

 

わたしたちは、争うことをよくないこととして育ってきたし、争う人は、何か欠落している、人としてダメだという価値観を植え付けられている。

でも、自分の人生の舵を切ること、自分を守ること、自分の人生を生きること、それらを守るためには、人と争う必要が出てくる。

そして人を警戒して距離を取ることや、逃げること、怪しむことは、相手を害することじゃない。気分を害する可能性はあるけれど、それよりも、自分を守るほうが大事だ。事件に遭っても、自衛しろ、自己責任と言われることが多い世の中で、警戒する自由は必要だ。警戒しても、100%安全ってことはない。でも、可能性を減らすために、わたしたちは、神経をすり減らしている。

 

 

わたしは、自分が事件に遭ったことや、いろいろな苦しい思いをしたことを、語ることをやめない。それは、わたしを生き延びさせてきた。それをやめるように言われることが正しいとは思わない。間違っている。そういう人たちは、私の人生に何一つ責任を負わない。彼らの利益がなんなのか、私にはわからないけれど、それは私の利益を損なうから。利益と利益の衝突が起きたとき、自分サイドに立たないで、どうして生きていかれるだろう。