c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

くだらないこと

ある日目が覚めたら、一つのメールが来ていて、わたしは、それでがっくりし、そして、輝かしいと信じていたもの、それがなにもかもが馬鹿らしくくだらないものに見えた。美しいものだと長い間磨き続けていたものが、実は、すでに光を失ってて、鈍く汚れていたことに気づいたような気持だった。

長い時間をかけて、人に何かを伝えるために作ってきたもの、そのひとつはブログだったのだが、それを「読みました」「面白かった」と言ってきた人は、何も読んでいなかったのだな、と思った。自分の読みたいことを読み取っていただけで、わたしの言いたいことを読み取っていたわけじゃなかった。

そこの大きな溝、ディスコミュケーションの存在はいつもひたひたと感じていたけれど、心許していた人だったから、そうか、あなたはそんなにも雑でくだらないまなざしで私を見ていたのかと思った。マイノリティペットとして。

詳細は省くが、わたしは、マイノリティペットとして扱われがちだ。

わたしはそれをとても憎む。その可能性を、排除しながら生きていると言ってもいい。

わたしがいくつかの属性を持つことと、かわいそうだということと、誰かの「かわいそうな人と知り合っていたい」という薄汚れた欲望を喚起する存在だということは、それぞれ別のことだ。

わたしはかわいそうだと思われることを避けられると思わないが、かわいそうな人を何とかしたいという欲を持った人をなるべく排除しながら生きていたい。かわいそうだと思われること自体はかまわない。かわいそうだと思う気持ちは美しいのだ。

ただ、自分一人で立っていられない人が、誰かを庇護することで、自分を慰めるというプロセスが、どうしようもなく汚らしく感じる。

 

 

 

ブログを読んだ人が、勇気を与えられた、元気が出た、と言ってくれていた。そういう人はずっといた。そういう感想はいつもうれしかった。

 

でも、メールを読んだときに、それ以上に、わたしは、単なる虚無を書き連ねてきたんだと思った。誰にも伝わらない、ただの文字であって、意味なんてない。読んでいると言っていたが、読めてはいなかったんだろう。どれだけわたしが「読めない」文書を書いていたのだとしても、それにしてもあり得ない勘違いをしていた。そんな事実はないのにと思いながら説明をすることはもう無駄だと思った。

つまりわたしの魂のようなものを書き綴ったものは、届いていなかった。

 

誰にも届いていなかったのだ、と一般化するのは悪い癖だ。誰にもなんてことはない、ただ、一人に届かなかっただけで、気持ちが落ちるのは、それこそ馬鹿らしい。

でも、なにか、力が抜けるような気がした。書くのをやめようと思った。

 

 

それでも、今日、やっぱりわたしはくだらないなと思いながら書いている。

書くよりも良いことはたくさんある。勉強をしたり、ゲームをしたり、お金を稼いだりできる。文章を書く以外のことをしているだけでも、結構忙しい。

 

でも、そうしている間にも、VRの記事を書きたいなとか、お金を稼いでいることを書きたい、失敗したことを書きたいと思う。

 

わたしは、過剰な面と、欠落した面とがあって、そのアンバランスさにいつも混乱する。誰かを傷つけない文章はない。存在できない。誰かを傷つけながら書いて、自分と誰かを励ますのだろう。

いつも、「仕方がない」という言葉を使う。あきらめているから。

あきらめていると同時に、いいこともあるだろうと思っている。

そういう風に暮らしていて、また戻ってきた。