百年前の人と会話するための読書
とにかく孤独だったころ、読書にはまっていたのは、本はいつでも話をできる友達のように思っていたからだ。
久しぶりに本を読むことができた。本を読むのがおっくうでつらくて、できなくなっていた。
十年前に買った本をようやく読んでいて、今私に必要だった本だと思う。
断捨離が流行ったから、わたしも大事なものを捨てて後悔しているけれど、読んでいない本を読んでいないから不要だと判断して捨てる、ということをしないでいてよかった。
本を買うというのは、メモみたいなものだ。かさばるけれど、これは覚えておこう、と思えるものを買っておくと、後で読むことができる。
読書は、作者や、物語との対話で、すでに亡くなった人とすら話をすることができる。考えをきいて、自分の中でかみ砕いて、わたしはこう思うんだけど、と。読書をすると、自分のことが分かる。本が言っていることと、あ、私はそうは思わないなと思ったり、思いもしない考え方を示されて、心を動かされる。
わたしが好きな作家は、ミヒャエルエンデとドストエフスキー。二人とも立派な人だけれど、どこかしょうもないところがある。ドストエフスキーは隙がありまくる作家だ。だらだらと話し込んでとまらないのに、突然激高したり泣き出したりするけれど、そのリズムがあっているように感じて、文豪中の文豪といえるくらいなのに、親近感がわく。ああ、わたしもこんなふうにダメでくだらなくて、でもちゃんと生きているよと言いたくなる。
ミヒャエルエンデは思想家で立派なんだけど、怪しいことも結構していて、でも、その怪しさとの距離の取り方が健全だから信用できる。ドイツからイタリアへ移住した理由もつらい。泣ける。苦しくなる。フランクリンの本を読んだからなおさら。頑張って生きてかなきゃなあと思う。
しょうもないけど立派な人たちの考えがいつでも味わえる。
わたしはずっと何者かになりたくて自分ではない自分になりたいと思っていた。
でも、そんなものにはなれない。
十億円の資産がある家に生まれたかったとか、美しくて賢くて才知あふれる人間になりたかったとか、優しい人間になりたかったとか、思う。
そして、いつも焦っている。
なれないものになりたがって、時間を失っていることにも、自覚があるのに、今の時間を大切にしないで不幸でいる。
幸せな瞬間はいつだってあるのに、その味をすぐ忘れる。自分から忘れたがっているみたいに。
そういうくだらない苦しみみたいなことを書かれている小説やノンフィクションを読むと安心する。ああ、バカなのはわたしばっかりじゃないなら、よかった。わたしは一人じゃないんだなと。
立派に見える人にも悩みはあるんだなと思う。あるからどうしたって話なんだけど。他人にも悩みがあるからなんだってことも言える。けど、わたしだけ、っておもわないですむのはいいことだ。自分のことばっかりになるよりましだ。
もう死んで、この世のどこにもいない人と会話できるのが本の楽しみだ。
閉じているときには、本の中では何が起きているんだろう?とバスチアンが言ってから、ずっと私はそのことを考えている。
そして、本を開くと冒険が始まる。