判断に自信が持てない
いろいろなことがわからなくなった。
わたしは、自分を左翼で、フェミニストだと思っていた。
天皇制には反対だったし、自分は女性差別に反対だから、フェミニスト。
それはゆるぎないものだった。
だけど、今は、自分が何者かどうかもよくわからなくなった。
自分が女だ、というのも、考えれば考えるほどよくわからなくなった。
なぜ、天皇制に反対だったかもよくわからなかった。
家父長制に反対だったから?そう、身分が存在することはおかしい。
でも、元号がなくなれば西暦になる。それは、西洋の家父長制のもとに入るだけじゃないのか?
わたしは、いつも、人の顔色を窺っている風見鶏みたいだ、と自分のことを思っている。しかも、顔色をうかがうことはうまくいっていない。人の意見や意図に右往左往している。
自分が絶対に正しいと思えない。どこかに正解が転がっていると思っている。
そんなはずはないのに。
真理がそこらへんにあるとしたら、意見の違いなんてうまれない。でも、実際には、意見の違いがある。
わたしは、人と仲良くしたい。という気持ちがある。
そして、自分は人付き合いにおいて、間違っている側にいると確信を抱いている。それ自体が間違っている可能性もあるのに、悲しいことに、経験がそうさせている。
孤立を恐れている。
実際には、自分を受け入れてくれる人はいる。
わたしがどんな意見を持っても。連れ合いがそうだ。彼は、絶対の味方だと信じられる。
世界に一人でも味方がいたらいいのにと願っていた未来にわたしはいるのだ。
だから、恐れる必要はないのだ。
でも、今、わたしは恐れている。
人を失望させること。ほら見たことかと言われること。
思想が違っても「いい人」はいる。
思想が同じでも「嫌な人」もいる。
わたしは、後者を選んできた。けれど、それにつかれてしまった。思想の違う、でも、価値観が似ている「いい人」を選びつつある。
それは、きっと間違っているんだろう。だけど、わたしは自分の感覚を信じたい。
いつでも、わたしは、わからなくなる。そうしたときに、感覚を信じてる。感覚にはわたしの経験すべてが詰まっている。自分本位に。自己都合のために、自分を信じたい。
自分を信じられないけれど。自分がどこに立っているかもわからなくなるけれど。
何かがわたしを裏切るとしても、裏切られてもかまわないものを信じるしかない。居心地の良さ。動揺しない場所。