線引きとしての言葉
言葉というのは、線引きするものである。
線引きには暴力性がある。あるものを含みあるものは含まないと分けるからである。
すべてのものにグラデーションがあるとしても、どこかでそのグラデーションにメスを入れて線を引かないといけない。そうでなかったら、言葉を使って話すことができなくなる。
あれは、人。これはわたし。わたし以外とそれ以外を分ける。
それで、わたしはわたしの話ができる。
わたしは女。彼は男。それで、わたしは女であることについて話す。彼は、男として生きることについて話せる。
0から1の間には、無数の数がひしめいている。
もし、0.5で線引きをすると決めたなら、0.5以上は1になる。
どこかで区切って四捨五入しなくてはならない。どこから1にするのか、どこから0にするのか。
例えば、限りなく0.5に近い数があるとする。
0.49999999…という数があっても、それは、0.5にならない。
それ未満は、どれだけ0.5に漸近していたとしても、それは0とする。
言葉も同じように何かと何かを引き裂く。
でも、その力を借りて、私たちは語ることができる。
あれは、犬だとか猫だとかいう時、カモノハシだとか鳥だとか哺乳類だとかいう時。何が何に含まれて何が下位階層にいるのか上位階層にいるのかが、わからなくてはどうやって話をしよう?