c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

線引きとしての言葉

言葉というのは、線引きするものである。

線引きには暴力性がある。あるものを含みあるものは含まないと分けるからである。

 

 

すべてのものにグラデーションがあるとしても、どこかでそのグラデーションにメスを入れて線を引かないといけない。そうでなかったら、言葉を使って話すことができなくなる。

 

あれは、人。これはわたし。わたし以外とそれ以外を分ける。

それで、わたしはわたしの話ができる。

わたしは女。彼は男。それで、わたしは女であることについて話す。彼は、男として生きることについて話せる。

 

 

0から1の間には、無数の数がひしめいている。

もし、0.5で線引きをすると決めたなら、0.5以上は1になる。

どこかで区切って四捨五入しなくてはならない。どこから1にするのか、どこから0にするのか。

 

 

例えば、限りなく0.5に近い数があるとする。

0.49999999…という数があっても、それは、0.5にならない。

それ未満は、どれだけ0.5に漸近していたとしても、それは0とする。

言葉も同じように何かと何かを引き裂く。

でも、その力を借りて、私たちは語ることができる。

あれは、犬だとか猫だとかいう時、カモノハシだとか鳥だとか哺乳類だとかいう時。何が何に含まれて何が下位階層にいるのか上位階層にいるのかが、わからなくてはどうやって話をしよう?