c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

ワイルドスピード・スーパーコンボ 感想

ワイスピのショーアンドホッブスを観ました。

ワイスピは頭が悪くなる映画として有名ですが、これも期待に背かず、ご機嫌にあほになれる映画でした。 

 

yeah!

夏だ坊主だ筋肉だ!

筋肉と言えばワイスピ。ワイスピと言ったらデッカードホッブス

 

ステイサムとロック様の組み合わせだよ。テンション爆上がり。

デッカード役のステイサムのスーツ姿はかっこいい。やっぱりスーツで爆発はいいですよね。振り返らないやつ。今回はなかったけど。同じ理由でキングスマンとジョンウィックが好きです。

 

筋肉はお好きですか?ハイ好きです。

この映画はですねー、あらすじは、

筋肉ですべて解決されました終わり。あと心と家族大事。

 

ねー、それっていつものワイスピですね。

 

 

デッカードは最初はかっこいいキャラだったのに……。かっこいいけどさ…とわに……。

めっちゃキュートになっちゃったじゃない????

んで、あのアクションどうやってとってるの????

 

 

映画のレビューを書くのって難しいですね。

ギャグにしか思えないすごいアクションが続いて思わず笑ってしまったとか、強引に「家族の愛と心が大事だ」という締めとか、全般的に面白かった。

 

スパイもののエッセンスがありつつ、恋愛の要素も無理やりねじ込まれています。超絶無理やり。

 

ホッブスは世界を救うって言いすぎでちょっとうざいし、デッカードは、嫌がらせの仕方が大人げない。

わけわかんない空港保安官は出てくるし、ホッブスの親友のロックは気持ち悪いラブがすごい。

デッカードホッブスにお前は目立つからじゃまだと言っていて、説得力がすごくあった。ホッブス目立つよね。でっかいもん

ビルから飛び降りて敵を追跡したり、火炎放射器で人を焼いたり(僕は小銭じゃないってセリフがよかった)、拷問されているシーンの首筋の血管がすごいし、役者って首の血管自由に出し入れできるの???って思った。

絶対死にそうにないし、そういう意味でははらはらしない。大団円だろうなと思ってみる。その点裏切りがないのが安心。

 

 

ワイスピって、皮は新しいけど、中身は古くは水戸黄門みたいなもんだよね勧善懲悪もの。

 

わたしはねー毎回同じものが見たいんですよ。

 

芸術じゃなくていい。

毎回同じものを同じ品質で出してくれる監督って大好きよ。古いのなら、シャーロックホームズとかポアロ、ミスマープル、刑事コロンボとかああいう探偵ものもそうだよね。こうなるだろうってのと意外性のバランスがいいやつ。

ワイスピってそういう映画だと思うんだよね。毎回同じ。トム・クルーズが出てくる映画もそうだと思うし…。

 

ヘリコプターで○○が飛んだり、武器がないから相手の武器を無効化したり、難しそうなメカを自動車修理をするメカニカルがさくっと直したり。おー。

 

で、ママが出てきて叱ってみんな仲直りしてめでたしめでたし。

めっちゃ面白いから次も出るであろう。ワイスピは終わりそうだけどほんとに終わるの?あと、スターウォーズもほんとに終わるの?予告でスカイウォーカー家の話は終わるって言ってたけど、スカイウォーカー家以外の話は続くってことなの?

それにしても、ジョーアンドホッブスに比べたら本編のワイスピってシリアスだよ。めっちゃシリアスだよ。と思った。

 

ネタバレしちゃっておいてなんだけど、みんな観ようよね。あと、ハイアンドローも今度やるし、この夏は映画が楽しいね。

良い支配者階級の人もいる=良い男性もいる、だということ

 フェミニズムについて、本を読もうと思って、紹介していただいた本を読んでいる。考えがちゃんとまとまったら、blog,c71.jpに書こうと思う。

 今、socialist feminismの本を読んでいて、今まで知らなかったことがいくつかあった。

マルクス主義では、抑圧者、被抑圧者の二つの階級に分けて考える。

でも、マルクス主義は、女性や子供についてあまり考えていなかったから、マルクス主義の考え方を補って、socialist feminism が生まれたよ、という話らしい。

抑圧者・被抑圧者

で、女性と男性で言えば、女性が被抑圧者、男性が抑圧者。

 

抑圧者という言葉でわかりにくかったら、支配者。

 

また、それとは関係なく、自分がおさらいとして書く。

男性の体を持つ人は、支配者階級だ。それは、すべてのものが、男性に合わせて設計されているから、それだけで資本主義的競争があっても有利だ。

良い支配者階級の人もいる=良い男性もいる、だということ

良い男性もいる、という言葉は、「良い支配者階級の人もいる」と言い換えられる。

 

個人的に素晴らしく良い人であっても、支配者階級にいるということは逃れられない。

よく、個人の不幸は比べられない、個人の痛みを比べることはできないというが、本当にそうだろうか。

 

お金がある人が、味わう不幸と、お金のない人が味わう不幸とどちらがつらいだろう。

お金がないほうだ。

お金があると人間関係でひどい思いをする。それは確かにそうだけれど、お金がなくても人間関係で苦労はする。お金がない&人間関係だったら、後者のほうが大変だ。

 

男性と女性もそれと同じで、男性の「女性をあてがえ、レディースデーは女尊男卑だ」という苦しさや生きづらさと、女性の「お金がなく、安全もない」という苦しさや生きづらさが同列にあげられることもおかしい。苦しみの階層が違う。

そういう意味では、不幸は比べられる。

個人の不幸や痛みは比べられないというけれど、それが生存に必須な苦しみに近いかどうか、その先の発展した要求の苦しみかどうかで、その重さを比べることはできる。

弱者としての結婚、強者としての結婚の非対称

結婚は、女性が弱者として選択しうる生存戦略の一つだ。結婚は、男性が女性を支配することの始まりである。

女性を非難するために言っているのではなく、その逆だ。

男性がどれだけ良い人でも、今の日本で起きる結婚が女性への支配だということからは逃れられない。せいぜい自覚して、自分は支配してしまっているのだ、と自省するしかできることはない。そして、男性は、結婚生活で女性が失うものを代わりに失う選択をすることだ。

 

女性の失うもの

まず、女性は、名前と睡眠時間を失う。

結婚した相手よりも長く眠り、家事の時間が相手よりも少なく、健康が増して、稼げるお金も増え、名前を失うことがない女性がどれだけいるだろう。けれど、多くの男性は、そのすべてが叶う。

女性にとっていいことがないように見える結婚生活において、金銭面でだけいいことがある。けれど、その経済力と引き換えに、自立を奪われる。男性は、自立を奪うと、支配する。

子供が生まれた後、夫は、妻の会社から、人件費をフリーライドする。

 

男性を基準とした世界

今の世の中では、男性が基準になって物事が出来上がっている。

例えば、イスとテーブルの高さ。

運転ならば、運転席の配置。ブレーキペダルまでの足の長さ。小柄な女性は物理的に届かなくて、能力を発揮しにくい。

逆に台所は、女性の身長に合わせて作られている。それは、男性を排除しているから、というよりも、台所仕事は女の仕事にされていたから。

そして、実際、女性は、外で賃労働をするようになっても、家族のための舵からは逃れられていない。分担も進んでいない。

 

そういうことから始まって、意思決定をするのは、政治家はほとんどが男性。経営者から役員まではほぼ男性。

賃金格差や睡眠時間の差も大きく、どちらも女性のほうが少ない。

女性は安全に移動する権利を与えられていない(電車での性犯罪)。それによって、就労や教育の機会の逸失が起きているが、困っているのが女性だけなので、根本的な対処がなされていない。

 

男性差別という言葉が出てきているが、彼らは男性だからという理由で、賃金が低かったり、セクハラの対象になったり、性犯罪の対象になったりするだろうか?

こういうことを書くと、男性差別があると、男性からのあげあし取りが来るが、大体は例外の指摘に過ぎない。

 間違ったフェミニズム???

わたしは、フェミニストであることをやめようと思って、今も迷っている。

やめられるなんてお気楽ですねという声が内側から聞こえるけれど、そうかもしれない。お気楽かもしれない。ずいぶん長いこと考えてきたけれど。

わたしが「信じてきた」フェミニズムはダメだとあまりにも言われるのでめげていた。

「信じる」というのはロジカルじゃない。信念だった。人生の指針にしていた。宗教っぽいといえばそうなのかもしれない。それでもよかった。

そして、わたしの考えるフェミニズムは、どうも世の中のど真ん中ではなかったらしく、わたしは、フェミニズムを汚すものだとして扱われた。じゃあ、すみません、やめます末席を汚してすみませんと立ち去ろうかと思った。

でも、時間がたつうち、疑問を持った。それはいいことだった。信じろと与えられたものを信じていたらただの豚だ。わたしは豚か。今まではそうだったかもしれない。

 

だから、そうではない、と言えるようにするために、ちゃんと勉強したいと思った。

ちゃんと勉強して、それから、どうするか決めようと思う。たぶん、やめないと思う。

警戒する自由をくれ

以前から、暴力的な犯罪に遭うと、電車に乗れなくなったり、エスカレーターで後ろに人がいると冷や汗が出たり、エレベーターに乗ると閉じ込められたと感じて恐ろしくなったりするということを書いている。

家にいても、何度も施錠を確認したり、窓を割られるイメージがわいて、部屋にいても動悸が止まらなくなったりした。そういうことを書いてきた。

 

そういう過程で、「自衛しろ、それくらい誰でもやっているから当たり前だ」と言われてきた。

 

犯罪に遭ったことがなくても、男であっても(わたしに加害することを選んだのは、女だからだと加害者は言っていた)、病気でなくても、エスカレーターに乗るとき、後ろに人がいないか気になったり、電車に乗れなくなったり、エレベーターに乗れなくなったり、カーテンを閉め切ったりして暮らしているんだろうか?

 

わたしの周りの人はおびえないで暮らしているように見える。

道を一人で歩いたり(わたしは今も家の周りを五分くらいしか一人では歩けない)、夕方になっても外出できたり、人影や話し声におびえたりせず、人の集まる場所に行って、買い物をしたり(これもわたしは一人でできない。まれにできる時もある)、しているように見える。

 

私は、事件に関連する場所であるコンビニに長い間入れなかったし、その場所に似ているスーパーマーケットも同じだった。

 

そういう人もいる、お前だけじゃない、自意識過剰、被害者意識、被害者面(全部言われたことがある)って反論が来るだろうけれど、そうじゃなくて、みんながみんなそういう風に暮らしているわけじゃない……と言いたい。

 

多くの女性は、犯罪に遭ったことがなくても、ヒヤッとした思いをすることがあって、一人では入らない場所があると思う。遭わないように気を付けているばしょがあるだろう。

 

そういうことを「その属性の人を警戒するのは差別だ」と言われてしまうのは、厳しい。

自衛しろという人がいる一方で、警戒するな、とも言われる。警戒するのは差別だ、にまで、最近は言われる。

 

差別をしたくないから警戒することをあきらめる人もいるだろうし、逆に、警戒することを選んで、差別者と言われることに甘んじる人もいるだろう。わたしは、校舎だったけれど、今は、警戒することは差別ではないと思う。

 

 

警戒することで、相手から距離を取ることはまず差別じゃない。人には距離を選ぶ自由があるから。

そして、相手に不利益な取り扱いをすることがあっても、それが必ずしも差別にはならない。こちらの利益を主張すること(利益に沿って行動すること)が、相手の利益を損ねたとしても、すぐに差別になる場合ばかりではない。

 

法律と常識はすごく近いところにある。常識でも法律でも、怖がって、人を警戒して距離をとることは、もちろん禁じられてはいないし、自分の利益になることを主張すること、行動することは認められている。もし、著しく、人の利益を害するならば、争いが生まれるけれど、争いが生まれたからイコールその人が悪いわけでもない。

 

 

わたしたちは、争うことをよくないこととして育ってきたし、争う人は、何か欠落している、人としてダメだという価値観を植え付けられている。

でも、自分の人生の舵を切ること、自分を守ること、自分の人生を生きること、それらを守るためには、人と争う必要が出てくる。

そして人を警戒して距離を取ることや、逃げること、怪しむことは、相手を害することじゃない。気分を害する可能性はあるけれど、それよりも、自分を守るほうが大事だ。事件に遭っても、自衛しろ、自己責任と言われることが多い世の中で、警戒する自由は必要だ。警戒しても、100%安全ってことはない。でも、可能性を減らすために、わたしたちは、神経をすり減らしている。

 

 

わたしは、自分が事件に遭ったことや、いろいろな苦しい思いをしたことを、語ることをやめない。それは、わたしを生き延びさせてきた。それをやめるように言われることが正しいとは思わない。間違っている。そういう人たちは、私の人生に何一つ責任を負わない。彼らの利益がなんなのか、私にはわからないけれど、それは私の利益を損なうから。利益と利益の衝突が起きたとき、自分サイドに立たないで、どうして生きていかれるだろう。

鬱気味

鬱っぽくて、ブログを書くのもしんどい。

どうせ面白いこともかけないから書くのやめとこうと思う。

でも、書かないと面白いことを思いつきようもない。

なんでも、書いていくうちにリズムがついて、面白いことを思いつくようになるのだ。

 

 

鬱っぽいのには明確な理由があって、それは家族以外には話せないようなことなんだけれど、それで具合が悪い。

朝起きにくい、勉強しにくい、体を動かすのが億劫で筋トレできない、頭が働かないから、ネットもしんどい、という感じ。

 

 

すぐ死にたい死にたい、と言って、夫を困らせてしまう。

勉強ができないから死んだほうがいいんだ、とか、私がいなくなれば全部解決するんだ、とか、そういうことをいっぱい言ってしまう。

 

あ、でも、子供が「めめ」といって、雨を喜んだり「とたと」と言って、トマトを喜んだりするいいことはある。気に入らないことがあるところんと転がってパンダの赤ちゃんみたいだなと思う。

被害者という言葉

被害者だから自分のことを被害者だと書く。

でも、そうすると「被害者意識が強い」と揶揄される。

被害者だから被害者らしい意識を持っている。けれど、「被害者意識」という言葉にはそれにとどまらない悪意がある。

 

 

傷を負って、生還したこと。

わたしは、八年たっていても、まだ一人でエレベーターに乗ることが怖い。後ろに人が立つのが怖い。足音におびえる。

事件があった時間帯に外に出られない。

だから、いつも一人で外出しない。

 

そういう生活の不自由がある。感じていることや、考えていることがある。それを表現することで、バカにされる。

 

 

大体の人は、事件の被害者になったことがない。

重要犯罪者は、100人に1人くらいいる。じゃあ、事件にあった人もそれくらいいる。

それが多いのか少ないのかわからないけれど、身の回りの人が「自分は事件の被害者だ」と語ることはないだろうから(わたしだって、家族を含めて数人にしか話していない、親にも話していない)、「いない」ということになるんだろう。

 

 

包丁で刺された人が凶器として使われた包丁全般を使えなくなるように、わたしは、犯人と同じ属性の人が無理になった。キャップをかぶっている人、黒っぽいブルゾンをかぶっている人、白いスニーカーの人、身長170センチくらいの、男性。

 

騒ぐなと言って首を絞められたこと、殴られて口の中が血の味になったこと。腕の神経が切れて、左手の感覚がなくなったこと。救急車で運ばれて診察されたこと。入院したこと。電車に乗れなくて、会社を辞めざるを得なかったこと。犯人は網走刑務所に行った。犯人は、財産がないから、損害賠償はできなかった。報復が怖いから引越しした。

ファミリーマートで、被害者を物色したって話。弱そうだから選ばれてしまった。そういう後悔と嫌悪。

今でこそ、普通に思い出せるけれど、ずっと、思い出すと、事件のさなかに戻ったようになって、現実が現実ではなかった。

 

 

そういうことを、わたしは書いてきて、自分の主張がどういう経験に基づいていて、今どんなことを感じているのか、そういう感情が大事なんだと伝えるために書いてきたけれど「被害者意識」の一言を吐き捨てられて、何もかも台無しになる。

 

 

被害者意識という言葉を使う人は、こういうことはわからないんでしょう。どうして不用意に被害者意識という言葉を使うんでしょうか。

どうして人の心からでてくる言葉をつぶすんでしょうか。嗤うんでしょうか。どうして、と聞いても、たぶん、どうしての答えは返ってこないでしょう。それは何も考えてないんだろうから。考えてない人に削られている。むなしい。

くだらないこと

ある日目が覚めたら、一つのメールが来ていて、わたしは、それでがっくりし、そして、輝かしいと信じていたもの、それがなにもかもが馬鹿らしくくだらないものに見えた。美しいものだと長い間磨き続けていたものが、実は、すでに光を失ってて、鈍く汚れていたことに気づいたような気持だった。

長い時間をかけて、人に何かを伝えるために作ってきたもの、そのひとつはブログだったのだが、それを「読みました」「面白かった」と言ってきた人は、何も読んでいなかったのだな、と思った。自分の読みたいことを読み取っていただけで、わたしの言いたいことを読み取っていたわけじゃなかった。

そこの大きな溝、ディスコミュケーションの存在はいつもひたひたと感じていたけれど、心許していた人だったから、そうか、あなたはそんなにも雑でくだらないまなざしで私を見ていたのかと思った。マイノリティペットとして。

詳細は省くが、わたしは、マイノリティペットとして扱われがちだ。

わたしはそれをとても憎む。その可能性を、排除しながら生きていると言ってもいい。

わたしがいくつかの属性を持つことと、かわいそうだということと、誰かの「かわいそうな人と知り合っていたい」という薄汚れた欲望を喚起する存在だということは、それぞれ別のことだ。

わたしはかわいそうだと思われることを避けられると思わないが、かわいそうな人を何とかしたいという欲を持った人をなるべく排除しながら生きていたい。かわいそうだと思われること自体はかまわない。かわいそうだと思う気持ちは美しいのだ。

ただ、自分一人で立っていられない人が、誰かを庇護することで、自分を慰めるというプロセスが、どうしようもなく汚らしく感じる。

 

 

 

ブログを読んだ人が、勇気を与えられた、元気が出た、と言ってくれていた。そういう人はずっといた。そういう感想はいつもうれしかった。

 

でも、メールを読んだときに、それ以上に、わたしは、単なる虚無を書き連ねてきたんだと思った。誰にも伝わらない、ただの文字であって、意味なんてない。読んでいると言っていたが、読めてはいなかったんだろう。どれだけわたしが「読めない」文書を書いていたのだとしても、それにしてもあり得ない勘違いをしていた。そんな事実はないのにと思いながら説明をすることはもう無駄だと思った。

つまりわたしの魂のようなものを書き綴ったものは、届いていなかった。

 

誰にも届いていなかったのだ、と一般化するのは悪い癖だ。誰にもなんてことはない、ただ、一人に届かなかっただけで、気持ちが落ちるのは、それこそ馬鹿らしい。

でも、なにか、力が抜けるような気がした。書くのをやめようと思った。

 

 

それでも、今日、やっぱりわたしはくだらないなと思いながら書いている。

書くよりも良いことはたくさんある。勉強をしたり、ゲームをしたり、お金を稼いだりできる。文章を書く以外のことをしているだけでも、結構忙しい。

 

でも、そうしている間にも、VRの記事を書きたいなとか、お金を稼いでいることを書きたい、失敗したことを書きたいと思う。

 

わたしは、過剰な面と、欠落した面とがあって、そのアンバランスさにいつも混乱する。誰かを傷つけない文章はない。存在できない。誰かを傷つけながら書いて、自分と誰かを励ますのだろう。

いつも、「仕方がない」という言葉を使う。あきらめているから。

あきらめていると同時に、いいこともあるだろうと思っている。

そういう風に暮らしていて、また戻ってきた。

ファイナルファンタジーXIV 光のお父さんのレビュー

光のお父さんを観ました。

 

映画のクオリティ

日本映画としては稀有なほど、テンポがよく、演技もよくて、FFの音楽も効果的に使われていて、FFファンとしても安心してみられるクオリティだなっと。

無口なお父さんがそれだけで存在感があるのが、さすが役者さんうまいわー…。と思っていたら、普通に感情移入してハラハラしてみたので演技うまいなとかそういうのは忘れました。

 

もともとFFXIVはやっていたので、お父さんがめっちゃヒルちゃんのポーズするところにうけました。

 

ストーリーは予想通りと言えば予想通り、予想通りじゃないといえば予想通りじゃない感じでした。最後のところがちょっと意外でした。

 

アクターとして、実際のプレイヤーが参加しているのは熱かった。そりゃそうか。スタッフが強敵に挑んで同じようなの再現できないもんな。レベル上げからしないとダメじゃんね。

原作のモデルが実際に俳優として参加したのは初めての事例なんじゃないだろうか。

 

感想

お父さんがいいキャラで、時々出る関西弁がかわいい。

あまり遊んでくれなかった、と言っていたけど、ゲームもしているし、キャッチボールもしているしで、家にいる時間が少ない中でかかわっているほうだったんじゃないかなと思った。だから、岩本君もお父さんのことを知りたいと思ったんだろうし。

 

 

レビューっぽいこと書くの難しいですね。

見どころは、やっぱり戦闘シーンじゃないだろうか。タイタン討伐とか。

タイタンはそこまで難しくないけど、イフリートは確かにわかるまで難しいなとか思った。

 

お父さんがだんだんはじけてって、ゲームが生きがいになるのはいいなと思った。

わたしは、いっつもソロだから、あまりああいう風にチャットしない。チャットしているとその時間で一狩り行けちゃうじゃんって思っちゃうんだよね。あとFFXIVは、ソロのパーティマッチ機能が超充実していて、すぐしゃかる(すぐマッチングできる)から、あまりフレンド申請とかしない。岩本君、ゲームの友達がリアルでもネトゲ内でもいるなんてマメだなあと感心した。ああいう、対人スキルうらやましい。

 

 

でも、初心者だからフレンド申請されても話しかけられても、怪しまれないのはその通りだと思った。そういう文化かなと思うよね。

 

 

ネタばれ↓

 

 

 

こういう映画だとだいたいお父さん死ぬじゃん。死なないで、最後にヤッホーみたいな感じで出てきたのはよかった。もう、そこが一番良かったよね。まじ。ゲームで生きる生きがいを取り戻すのってよくわかる。

役割がなくなると、生きていられなくなるのも分かる。違う場所で違う役割があると生きていける。

 

 

役割がなくても生きていける人もいるんだろうけどさ、われら凡人は幻想がいるんだよ。必要とし必要とされているっていう幻想。退屈な日常を生きるための強力な夢がいるの。人生が長いし短いからその間の退屈を埋めるものが何かしら必要で、それは、子供だとか家族だとかマイホームだとか、出世だとかで。そういう幻想が壊れると、ああいう風になるよね、って思った。

一番はそこかなあ。

家族に自由な選択をさせるために、家族を背負って仕事人間として生きていた。

仕事を辞めざるを得なくて、この世に必要されているというくびきがなくなってしまった。

 

だから、病気の治療に前向きになれなかった。

けれど、ゲームという場で、違う役割(DPS)を得て、知らない場所で冒険していくうちに、生きること(=感動)を思い出して、治療に前向きになる。もっと、違う場所で違う感動を感じたいから。

 

つい、この世で役立ってないから死にたいとか思っちゃうんだけど、別に役に立ってなくたって、生きていると楽しい、感動した、心が動かされた、だから明日も生きていようと思うのって超正しいよなと思った。

 

わたしなんかすぐ拗ねて、「あー、私なんかいなくたってどこにも迷惑かからんと消えるのが一番や」と思ってしまうんだけど、そうじゃないんだよね。自分のために生きるんだよね。

 

自分のために生きるのって難しいけど。てか、自分のためだけに生きていると自分が要らなくなったときに、すぐ死んでもいいと思うから人のためにも生きなきゃだけど。バランス大事。必要とし必要とされたい。

 

生きるってことは、体という器を使って中身の経験を増やしていくゲームだよね。レベル上がるし。レベル上げよう。強くなったらラスボスが出てくるかもしれないヤバイ。