オセロみたいにひっくり返る
わたしは狭量な人間なので、いろいろなことが許せない。
でも、怒っているときがだいぶ減った。鈍くなった。
幸せを幸せと思えず、自分で自分の幸福をけなしてしまうところがもともとある。
それでもずいぶんまともになった。
昨日は、くさはらにでかけて、三人で散歩をした。
子供は大きく口をあげて、「お、お」と言いながら、とてとてと歩いた。下を見つめて、転ばないように注意しながら。口を結んで、まじめな顔をして、風が吹いた方向を見つめる。足元は柔らかい土と草だから、しりもちをついても痛くない。
暖かい日の光が降り注いでいて、周りには、シートを引いた家族がピクニックしたり、スケートボードをしたり、ボール遊びをしている。
子供は坂道を登ったり、降りたりした。ずっとそよ風が吹いていた。ボールを抱き上げて落とすを繰り返すので、転がしてやったら、転がして返してくれた。
「やった」「あった」という語彙が増えた。「あとー」と、いろいろな場面で言うけれど、まだ意味が分からない。
小さな足で、サッカーボールをけっていた。左が利き足なんだなと思った。わたしは右足でける。伴侶は左足でけるといった。
三十分たって、疲れただろうと、抱き上げると、反りかえって泣いた。まだ遊びたいのと眠いのとが混じっていて、一生懸命暴れて、頭に汗をかいていた。
こういう日は、やっぱり幸せだと思う。
91歳になる人に、手紙を書いた。急がないと、何もかも変わってしまう。ずっと見慣れていたお店は、閉店してしまう。
嬉しいこと楽しいことは訪れないのだと思っていた。自分は醜く、救われないのだと思っていた。
今朝、マニキュアを塗った。これは趣味だから、何の負担もない。
自分に注意を向けると、空洞のように感じる肉体が、実感をもってよみがえる。
月並みに、人並みに、喪失は、オセロのようにひっくり返る。