c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

心配しなくても、力なんてないし

トランスジェンダーに関しての話題についての、論理的じゃないやつ。

 

わたしがブログを書くことで、心配してくれる人が二種類いて、一つ目は、わたしの心身の状況を純粋に心配してくれている人、二つ目は、わたしに影響力があって、それが、自分たちに不利益な形で作用すると信じている人。

 

わたしにはパワーなんてないし。

影響力もない。

だから、心配しなくてもいいのに。

 

って思うんだけど。

 

こっちに自分を省みろ、という人たちは、省みたら、自分たちの思うような方向に行動を変えるんだと信じているのかな?だとしたらすごくピュアなんだと思う。

自分で考えてみて、そのうえで、この行動を選んでいるのに。だって、わたしは独立した一人の人間だから、自分で考えて自分の行動を選ぶ。誰かの指図なんて受ける義理はない。

 

わたしもこうやって気にしているんだという姿勢を見せるのは、「省みて、そのうえで、反論する」ということを選んだんだよ、と示すためでもある。

 

人に指図することはできるが、それを実行させられるかって別次元なんだよね。

指図は自分のできることだけどそのあとは、他人の話だから。なので、指図したのに、言うことをきかないといわれても、わたしは困る。いうのは勝手だけどさ。どーなの。

 

被害者意識が強いだとか、被害者であることを盾にしている、とか今までさんざん言われてきたけど、被害者なのは事実だから、たてにするもない。

そもそも「被害者意識」って、被害者じゃないのに、被害者ぶるときに使う言葉でしょう?被害者だよ。いろいろと、被害者だし。たくさん被害者だし。ただ、事実として被害者なんであって、被害者だからどう、っていうのを読み取っているのは向こう(向こうとはなにかって感じだけど)なんだと思うんだよね。後ろめたくなるのをごまかすために「被害者意識」っていってるんじゃないのかな?

そういえば、被害者相手にいろいろきついこと言っているんじゃなくて、「被害者意識をふりかざすやつ」を責めているだけになるもんね。

 

 

 

今日は散歩したり、お寿司を食べに行った。回るやつ。

苺のスムージーをベンチに座って飲んでたら、外国から来たと思しき女性が、プッシーハットをかぶっていた。手を振ってくれたから手を振り返した。すごく似合っていてかわいかった。昨日、国際女性デーだったものな。

そう、わたしは、二か月くらい、外出できなかった。ようやくちょっとずつできるようになった。

なんでかというと「性暴力被害者は外に出るな」というのを真に受けたんだよね。それを言うことが、ひどいと思うし、思っていたんだけど、それを読んでから固まってしまって。「性暴力被害を語ることで、差別の扇動になる」とかもあった。なんかね、無茶苦茶だよね。

それくらい、わたしには、精神力もないし。

 

人の言動を批判するとき、わたしはなぜそう言えるのか説明してきたつもりだ。ある程度社会的合意のあることが多かったと思う。就労格差とか。性暴力の話題とか。そういうやつ。不十分だったときもあるかもしれないけど、わたしなりに。

もちろん、社会的合意ができてないようなことを、動かすのが、権利運動だけど。それには、それなりの時間をかけることが必要だと思う。なんでも、時間がかかる。

 

でも、わたしに「差別だ」っていう人は、それがなぜ差別かと説明しない。というか、わたしの言っていることの意図を、読み取ろうとする人がすごく少ない。

いや、いるよ。丁寧に読み取ったうえで、意見が違うことを示してくれる人いる。そういう人にはめっちゃ感謝している。人の善意をまだ信じられると思った。

でも、社会的な合意があるわけでもないことを責め立ててくる人は、どうなんだろう。その人たちの思っているようなことが、可能になったとして、その先の責任をとれるんだろうか?責任を取るというと難しいけど、どういう影響が出るか考えているんだろうか?という疑問があるので、そういう話を今までしてる。少なくとも、時間をかけてほしいと思う。

 

時間をかけて、議論もさんざんしたうえで、社会的合意が形成されて、十年以上たっていることなら、知らないことを責められても仕方がないと思うよ。でも、形成途中じゃない?というか、強引に形成しようとしているように見える。議論をするなって言ってるようにメタメッセージを受け取ってる。

当事者でさえ、意見が割れていることだったり、特に、トランスセクシャルの中核群は、批判的だったりするみたいじゃないですか。トランス女性は女性です、については。トランスジェンダートランスセクシャルを一緒にしないでほしいというのは、たくさんみたよ。

 

トランスジェンダーの権利に関しては、就労、就学、医療、とか、そういう領域の話をしたほうがいいんじゃないかな。

(まあ、たぶん、ネットの言動を言われているんだろうけど、でも、わたしは、自分が問題だと思ったところを提起する。自分のために)

トランスジェンダーに拡大したって、女装していたってなにしてたって、挨拶されたら挨拶しているよ。現実問題として。挨拶。そんなにいっぱい接点があるわけじゃないけど。

なんかねー、トランスジェンダーに、異装がはいるかどうかだって、まだ議論が割れているのにね。それで、「女」と言われても、じゃあ、「女」のための話っていつできるの?できなくなってない?

 

いやー。してるよ?わたしは話をする。女の話をしてる。

しているけど、こうやって書くことに、圧力は感じています。だから、こうして圧力を感じているって話を長々と書いているんだけど。それは、同じように感じている人がいるんじゃないかって思って、その人たちに向けて書いています。

(わたしがなんでだらだら書いているのかいくら書いてもわからない人もいるのは知っているけど)

女がどんどん薄まって領域が広がってしまって、そしたら、プッシーハットの話も、体や心を傷つけられた話も、限定的になってしまうじゃないですか。

女の体にまつわる差別は残るのに、女と男の区別がなくなったから、見た目上の差別はない未来なんて。ルールや規制をなくしたら、結局弱者にしわ寄せが行くって、さんざん見てきたことじゃないですか。

 

わたしが個人的なことを書いていると責めるのさえあった。恨み言を書いてるって。そりゃそうだよ。恨み言も書くし、恨み言じゃないのも書くし、何でもかんでもレッテルを張って一つの色にまとめられても困る。

わたしは個人的なことを書くためにブログを始めた。これは単なる個人のブログなんだよ。みんな適当なことを書けばいいよ。私もそうする。ただし、なるべく説明可能なものを。

 

個人的なことって大切で、それを書くことで、昇華されることもある。共有できる。それをカウンセラールームだけでしろよ、という人もいますけど、でも、別にそんなのその人(患者でも被害者でも)が選べることだし。それが人生の決定権があるってことだから。