自己肯定感と気分の上下の相関
昨日の記事では、自己肯定感はなくていいと書いた。c71.hateblo.jp
- 自己肯定感があるとは躁状態なんじゃないのか
- 個人主義と心理化
- 習慣を重んじて身体化してしまう
- それは躁鬱のコントロールと同じではないのか
- 気分を安定させるために
- 自分も他人もコントロールできない
- 感情に合わせない
自己肯定感があるとは躁状態なんじゃないのか
自己肯定感とは気分の上下の問題だと思う。
私は躁鬱なのだけど、鬱の時には自己肯定感がないし、躁状態の時には自己肯定感がある。
振り返ってみると、今まで自己肯定感がないと言っている人たちは、鬱ではないものの鬱状態ではあったと思う(鬱は病気だが鬱状態は病気じゃないという定義がある)。
つまり、自己肯定感があるかどうか悩む事態は、気分を良くしたら解決する問題なのではないだろうか。
自信がある人というのは、うつ状態じゃないだけではないだろうか。元気で健全みたいな感じ。ただ、躁とは違って、それで制御不能にはならないみたいな。
(私には躁と鬱の中間が今のところあまりないので推測だけど)
だから、元気になれば、自己肯定感を経由しなくても、ぐらぐらしなくなるはずだ。
自己肯定感と自信や安定はセットで語られがちだけど、むしろ、元気や健康のほうが大事なんじゃないか。
元気や健康のためには、規則正しい生活や睡眠、休息が大切である。
個人主義と心理化
近代では、キリスト教の価値観から脱して、人間中心主義に回帰するものだった。そそして、個人主義が盛んだった。若きウェルテルの悩みやロビンソン・クルーソーが代表しているような。
個人主義は、理性をもって身体や自然を支配する、人間が一人で完結するべきだという、精神が身体を凌駕するという主義だ(と私は理解している)。
これは、心の領域を広げるものだった。心理学が、近代化とともに発展したことも無関係ではないだろう。あらゆるものが心理化され、社会的な問題も、個人の心の持ちようだと転嫁することも、個人主義への批判としてあげられる。
さて、心の動きや、感情に左右されていると、社会生活がままならなくなる。
それは、私が一番実感していることだ。
習慣を重んじて身体化してしまう
そのために、どうすればいいのかというと、習慣を重んじて、身体化してしまうことだ。
例えば「行きたくないかもしれない。行こうかなどうしようかな、やめておこう」とぐるぐる考えていると、本当に行けなくなってしまう。行くかどうか迷うこと自体が、害悪なのだ。
そして、このぐるぐる思考には正解がない。悩みを作り出してしまう。
だから、行くかどうか悩むよりも、「行くものだ」としてしまうほうが良い。
もちろん、心をあまりにも軽んじて、行かないほうがいいのに行く洗濯をすることもよくないだろう。
それは躁鬱のコントロールと同じではないのか
躁鬱をコントロールするためには、毎日の生活を習慣づけることが大切だ。
習慣化、身体化してしまうと、いちいち悩まなくていいので、感情の動きに左右されて何もできない場面が減る。
「この鍵をどこに置こうか、今日はここに置こう」と一つ一つ決断をしていると、心に負荷がかかってしまうし、鍵をなくしてしまう。全く悩まないのも考え物だが、考えすぎると、若きウェルテルのように死んでしまうことになる。
昔の日本人は、習慣を大事にしていたらしい。それは、型を重んじることにもつながっていただろう。茶道や職人気質は、型を大事にする。型から入って、動作をコントロールすることは、心をコントロールすることにもつながる。
気分を安定させるために
と、いうわけで、気分を安定させるためには、行動を習慣化・身体化する。そして、なるべく頭を使わないようにする。気分を安定させたらいわゆる「自己肯定感」がなくてもよくなる。自己肯定感がないと悩むのは、何をしてもしなくても、気持ちがぐらぐらするからだ。
逆に言えば、気持ちがぐらぐらしない、ぐるぐる悩まない日常が手に入りすれば、それでいいのだ。
悩むのをやめよう、ぐるぐる思考をやめようと言われてもやめられないから苦しいのである。
やめなきゃと思ってもやめられない。そこで、意識を変えて、習慣をきちっと作ることにフォーカスしよう。
時間になったらご飯を食べる。時間になったら歯を磨く。私がつかれるのは、いちいち
ご飯食べたほうがいいかな、でも、おなかすいていないからやめよう、と考えるからだ。そろそろ歯を磨かなきゃいけないけど、磨きたくない、と悩むからだ。
磨かなくてはいけないものは磨くしかない。そこに磨かなくていいという選択肢を浮上させるから悩まなくてはいけなくなる。そこで、気分や感情に登場してもらっては困るのだ。やることはやる。やらなきゃいけないと思うと疲れる。
気分がどうであれ顔は洗う。朝起きる。そうしないと、生活リズムが崩れて余計苦しむことになる。
自分も他人もコントロールできない
自己肯定感がないとか、自分を愛さなければ人からも愛されないというおどしや嘘は、忘れよう。愛されなくても自己肯定感がなくても別にいいんだから。自己肯定感も自分を愛するかどうかも、元気じゃないときには、自分でコントロールできない感覚だ。自分を愛せればそりゃーいいけれど、それができないから悩んでいるのだ。悩まなくてよくするために、「自分を愛したい」と考えるのは本当に正しいだろうか?
元気になれば自分を愛したいという発想自体が消えるんじゃないだろうか。
愛されたい、愛されなくてはいけない、と考えるのは苦しい。人は自分の思い通りにはならないから、いくら望んでも、叶わないこともある。自分で自分を愛せるようになるかも怪しい。自分で自分をコントロールできるならば、自己肯定感もとっくに手に入って、安定した人格になっているはずだ。それができていないのだから、人のことも自分もコントロールできないんだとあきらめたほうが早い。
感情に合わせない
感情は暴れ馬のようなものだから、それに合わせると人生がコントロールできなくなってしまう。
自分の人生をコントロールするためには、感情から距離を置くことが大切だ。
感情は感情で存在するものだけど、それとは別に、ちょっと俯瞰してみて、自分の人生を歩む、人生をコントロールする意思が必要だ。