c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

わたしとあなたの出会えるところ

最近は資格勉強していた。自己採点したところ、ぎりぎりのラインで落ちてしまっていた。

三か月集中して取り込んだのでかなりがっかりした。

けれど、三か月八十時間くらい勉強できたのは自信になった。

私は自分の頭が悪いんじゃないか心配しているので、明日も病院で相談してくるのだけれど、本当は別に悪くはないともわかってる。

ただ、自分のしたいことに見合う頭の良さじゃないから、そして、努力が足りていないから、頭が悪いと思っている。

努力が足りないから、できていないのがわかっているから、容易に嫉妬する。

 

私は夫にときどき勉強を教えてもらうのだけれど、だいたい動揺してイライラして、薬を飲んだり泣いたり怒り狂ったりする。いい迷惑だからやめたいんだけど、なかなかやめられなかった。

でも、それは嫉妬だとわかった。

彼は誰よりも努力家で隙間時間なんてない。ぼんやりすることもない。いつも、起きている間は仕事をするか、勉強をするか、家の用事をするか。

現実逃避をほとんどしない。

 

 

私はと言えば、現実逃避をし続けることで人生を失ってしまっている。

それは少なくとも八年前から指摘されて知っていた。

過去を悲しむことや、失われたものを悲しむこと、それに酔うこと。

自分で自分の苦しみの殻に閉じこもって、酔っぱらったように時間を過ごすのは、現実を見ずに済むので、苦しい一方で楽だった。そこに努力は存在しないから。

 

私の前に現れた彼は、長いことしたかったことから疎外されていたから、したいことに飢えていた。朝六時にランニングをして、私が起きるくらいに帰り、シャワーを浴びて、朝食を用意してくれる。私は朝が弱いので、ゆっくり起きて、洗濯をする。

友達に、「家事もやってもらっていて、じゃあ、あなたは何をしているの?」と言われたけれど、何かな……。

生きることをしている。

 

生きることには努力がいる。私は生きることを努力している。たぶん、死なないように。死にたいけど死にたくないから。生きていたくないけど生きていたいから、割と努力している。

 

彼はたぶん、すごく生きていたいんだと思う。だから、知識欲に飢えていて、五分でも暇があったら参考書を開き単語帳アプリを覗き、子供を抱き上げる。

 

私も勉強をすることで、自分を取り戻せたような気がした。集中するということは自分を取り戻すということ。自分のために集中すると、ぼけた自分を振り落せる。頭がすっきりして精神的には落ち着いた。

 

私と「あなた」はものすごくとても違っている。

「あなた」は彼でもあり子供でもあり、この文章をのぞき込んでいるあなたでもあり、「私」でもある。私は今書きながら自分の文章を読んでいるから。

 

自分の時間を持つことが、自己を形作る。自分の形がゆがんでしまったり、境界線が溶けてしまうと、それは人を飲み込む濁流となる。濁流は人を害する。

 

子供を育てることで、自分の時間は減り、だんだんすり減ってしまう気がする。子供に対する愛情にあふれて、そのままあふれた自分が、子供に注ぎ込まれていく。だんだん消えてしまう感じがする。消えてはないんだけど、このままだと、いつか子供を飲み込んでしまう化け物になってしまうような怖さがある。自分が薄くなってしまう。

今は子供と一体でもまだいい時期だと思う。でも、もう少ししたら離れなくてはならない。これはとても悲しい、寂しいことだから、なかなか決断できない。

子供がかわいいから、愛しているから、何でもしたいから、自分のことはどうでもいいから、どうでもよくなった自分よりも子供のほうが大事だから、だから子供に集中して、どんどん飲み込んでいって、薄っぺらな自分が残る。

もう後戻りはできなくなって、焦りながら、子供を追い立てる未来がほんの少しだけど見えてしまう。

子育てが少し楽になればなるほど、子供の自我の問題が出てきて、それを阻害しないために、距離を取らないといけない。

距離を取るためには、自分を形成しなおさないといけない。

そのためには、自分の時間をとって、自分に集中しないといけない。茫洋と間延びした自我を削いで、きちんと整える。これは現実逃避じゃない。ただもう、現実だ。愛しているから。本当の意味の、良い愛を保つためには、自分の根っこがしっかりしていないと、何も与えられない。寄生してしまう。

 

私とあなたが出会う場所は、濁流であってはならない。それが何かを押し流して死なせてしまう場所ではならない。私とあなたが出会う場所は、澄んだ水がさらさら流れる清流でなくてはならないよ。生きていくためにね。