美醜と雑誌
http://kutabirehateko.hateblo.jp/entry/2019/12/18/130102
(id:kutabirehateko)さんのこの記事を見て、おー、こちらは買いましたよ、と思って便乗します。内容はあまり関係していないけれど。
私は今月オトナミューズとVERYを買いました。
オトナミューズは全然参考にならないわけのわからない服がわけのわからないコーディネートでわけがわからない勢いのまま掲載されていてコラムも面白いので時々買っています。
私はこんなだけど、ファッションのセンスがないことにも、コンプレックスを持っているし、雑誌を見ても分からないことが多い。てか、わからなくていいちょっとよくわからないファッションを混ぜているよね明らかに。オトナミューズなら肌みせニットとか。滝川クリステルさんがカバーモデルになる年齢層での雑誌だよ????見せたかったら魅せていこうということなのかもしれないが……。冬は寒くない?まあいいんだ雑誌は夢の世界だから……。
服で参考になるのはバイラとか、VERYかなやっぱり。コラムがおもしろくて、ついオトナミューズを買いがちだけど……。
(滝川クリステルさんである)
オトナミューズはどこに着ていくのかわからないドレスの特集があるかと思うと、ジェラードピケのパジャマでどこまで外出できるかというコラムがあるふり幅の大きさが魅力だ。
今回のコラムで良かったのは、真っ黒なブーツだけを集めている人がどういう風に違うブーツなのか、ということを散々語ったのに、最後のほうで、でも、基本は三種類しか買っていないとか、そういうことを語っているのが今回は気に入った。
毎日黒いブーツだけど、使い分けるの
全部、違うの!
私もコレクションしがちなのでわかる。
モデルさんの顔は、ほりがふかく、華やかな美人が多い印象だ。
そして、VERYを買いました。雑誌を二冊買えた。
今月号のVERYで私の印象に残ったのは、カバーモデルのみっこさんのインタビューだった。
若くなくなって世代交代の波に押されて焦ったことや、自分を変えていかないと生き残れないこと。大舞台での喜び。おじけづいたこと。
私はモデルのような顔が整った人は、人生も順風満帆だと思いがちなところがある。そんなわけないし、そういう妄想は実際のモデルさんにとってひどいことだと思うのだが、自分で自制していないと自動的に「美人だなあ、いいなあ」と素朴に思い素朴さにうらやましいと思い、そして、そういう素朴さって邪悪だなと思う。それって、結局人間扱いしてないんだよね、美人を顔だけで判断して想像して人間性を見てない。
私は自分の目が小さめなんではないか(多分普通)という疑惑にとらわれていて、体調が悪いともっと目が大きかったらよかったのに、と思ってしまう。
今人生の駒が進んできて、目が大きい小さいどころじゃないことがいろいろあるのに、人生が行き詰まると「目が大きかったら何もかも解決するのに」と現実逃避してしまう。
そういう感じの時に、VERYとオトナミューズはうちにやってきた。
VERYに載っているモデルさん、読者モデルさんの顔は、もちろん美人だけど、華やかな顔立ちの美人ばかりではなくて、よくよく見ると「あれこの人、目がすごく大きいわけじゃないな」という人もいる。親近感がわく。目が細い美人もいる。そうか目が小さい美人もいるよねと思ってちょっと元気が出る。
白眉な特集ではルッキズムについての特集があったことだ。美容とファッションの雑誌でそれなりにエッジが効いている。まあ今時それくらい意識が高くないとやっていけないのかね。Twitterかよって思った。
山崎ナオコーラさんの「自信のあるブスがもっと認められる世の中に」が特によかった。ブスと言われて傷つけられていること、美人になりたがっているブスばかりではないこと、
私に自信を無くさせようとしているよね、と社会に言いたい。社会は、ブスが自信を持たないことを望んでいるし、すみっこに行ってほしいと思っています。
自信や自尊心は、コツコツやることでしか持てないと感じています。悪口を言われなくなったから自信が回復する、ということはない。褒められて気分が上がっても一時的だし不安定なもの。
というのがよかった。
田中俊之さんの男性から見てよいとされる見た目という価値観は今も残っている。だから、ツライの
昔から言われる女の子らしさや可愛さの価値観を真に受けて育つと、すぐ人生の壁ができてしまう。本来これは女性にとって不利益な情報なわけです。
も、まあ普通の意見だなと思う。この人は、男性学の人らしい。
私はドライヤーが嫌いだけど、ドライヤー十五分かけたら、四日で一時間、一年で90時間以上じゃねーかと思う。髪をはねさせないために、一年で90時間は長い。身だしなみの範疇だといえばそうなんだけどね……。
髪にドライヤーをかけるのはともかくとしても、他の美容に一日十五分費やすとき、楽しければいいけれど、楽しくなかったら90時間になるもんなー…。その分をもっとやりたかった違うことに費やせていたなら、大きく差がついてしまう時間だ。
私は、身近な人にはかわいいし美人だよと言われても、「そんなのでブスが調子乗ってはいけない」「こんなにブスなのにわかってない」と思いがちだ。
ブスだから劣っていると考えている。ブスにブスゆえの物語を妄想して、能力が低いんじゃないかと紐づけてしまっている。ブスを普通の「いろいろな側面のある人間」としてみていないから、自分で自分のことを苦しめているのだ。
じゃあ、もし自分が美人だったらというと、上記の理由で他人ですら人間扱いしていないのだから、ブスでも美人でもやっぱり、それにとらわれている。そういう風に美醜で分けられるようなものだと自分のことを思っている間は、自分を人間だと思えていないってことだ。人間って本来、そういう乱暴な手つきで分けられないもののはずだから。
私は自分のことを普通に人間だと思っているけれど、でも、やっぱり、自分のことを美醜で分けられる何かと思っている節がある。美醜で分けられる何かと考えているうちには、ちゃんとは自分のことを人間だと思えていない。
大体の人は、男性のことを美醜であまりわける発想がない。女性を見るときにだけ美醜の判断をしてしまう。そういうところが自分でも嫌なんだけれど。女性は美しくかわいく小さくあるべきものという考え方が充満している。
雑誌をみていると、自分らしく強くありたい、というメッセージと、その一方で美しくありたいというメッセージが混合していて、読んでいると混乱している。
その二つは、両立するんだろうか、と思える。
美しさを求める文化はいとおしいけれど。そして、自分らしく強くあるために美しくありたい、ということもあり得るのだと思うけれど。
男性が自分らしく強くありたいから美しさを求めているかっていうとそうじゃないよね。
男性が自分らしく強くありたいから美しい女を求めているっていうのはよく見る。美しさの外部委託。金を独占して美しさと慰安を購入するのだ。そして、金を自分で十分に稼ぐ手立てから女性を弾き飛ばすのだ。そうしないと美しい女が手に入らなくなるから。
逆はないから。
「男と同じように、人間だし、権利を持っている人間だ」とナチュラルに思えるかというとそうじゃない。生きていれば、そういう風に思えない現実がごろごろしていて、「人間だけど、男性とは違う」と感じて、その気持ちが体中にしみこんでいって、どんどん惨めになる。
仮に、自分は絶対美醜の枠にはまらない人間だ、と思えたところで現実にはそうじゃない。そこは戦わないと。周りは勝手に見てくる。「私は気にしない」と言って個人化してしまってもいいのだけど、それはうまく社会に適応しちゃっただけで、社会を変えられていない。ほかの人は気にしているし、一人だけ大丈夫だからって他の人を見捨てていいのかって。
そして、戦う対象は社会はもちろんだけど自分もそう。自分の中にある、女性を低く見る視線と戦わなくてはいけない。低く見る視線というのは、女性を美しいかそうじゃないか、把握しようとしてしまう部分だ。
女は美醜を判断される。私は自分のことを美人かブスか判断しようとしているので、自分自身を人間扱いできていない。
男性は美醜を判断されない。されないというと語弊があるか。女性に比べて美醜を判断される余地が少ない。例外はあるだろうけれど。
たぶん男性は、自分が美しくなりたいという焦燥感に駆られて食事ができなくなったりしない。自分が美しいかどうかにそんなに人生の比重が大きくない。
もしくは、自分が美しくなくても美しい女を手に入れられたらそれでいいと思っている。それが勝利になる。
女は、自分が美しくなければいけないと思っている。ゴールはないし、年を取っていくのでゴールは遠ざかる一方だから苦しい。
美醜に関しては、社会は、すごくゆがんでいる。