子育てしていると無趣味になるけど、頑張っている
やりたいことが思いつかない。
一時間くらいまとまって暇になるんだけれど、その時間でやりたかったことをやろうと思っても、肝心なやりたいことが思いつかない。インプットがないからかアウトプットもない。
もともと趣味と言えば、読書と散歩とお茶とおしゃべり、くらいなものだったので、趣味と言えるほどなのかなあ。映画も月四本から八本観ていたかな。
今はゲームと勉強とブログかな。
勉強はそんなに好きじゃないのに毎日している。なんでだろう。やっていても苦しいばかりで見返りが見えない。昨日化学と日本史を勉強して途中でやめて寝た。
ゲームも子供のお昼寝の間にやるには音が出るから難しい。今は勉強するには疲れすぎている。だからブログを書いているけれど、特に書きたいこともない。
以前は社会や自分のことに関心があって、いろいろ書けたけれど、子供のことはあまり書く材料にしたくない。子供のプライバシーを守りたいので、何をしたとか何を言ったかとかも、一般的にするようなことだけにしておきたい。
秋冬には手芸をしていたけれど、今は針も糸も毛糸も出せないしレザークラフトもできない。
こういう風に無趣味になると、子育てにも悪影響がありそう。自分=子供になっちゃったりしてさ。今は小さいからいいけれど。
昨日は疲れすぎて鬱がひどくなって、自分をたたいてしまった。そういうのを子供に見せるのはよくないとわかっているのにどうしても止まらなかった。
何度ももうこういうのはやめよう!と決意しているんだけど疲れるとどうしても自分が馬鹿でダメだから死ねばいいと思って自分をたたいてしまう……。
それで気分転換に温泉旅行に行こうかなと思って、夜調べたら空きがあったので、明日の朝空いていたら予約しようと思っていたけれど、朝になってみたら、やっぱり予約は埋まっていた。旅館に泊まれば夕ご飯のために考えたり外食のために移動したりしなくてよかったんだけどなあ。
旅館に行く当てが外れたので、代わりにステーキを食べに行く予定だ。
家族ができてから、ネットよりも現実世界がにぎやかになったのはよかったけれど、同じくらい疲れるし気も使う。全然健全なんだけど、苦しい時もある。
私は去年の今頃から意識してネットから離れようと思っているけれど、まあまあうまくいっている。ネットしすぎると後悔するんだよね。人生がなんのためにあるんだろうと思って。外で遊ぶためにあるからだなのに、家の中で無駄に過ごしてしまうなあと。
今は公園で遊ぶのが楽しい。特に滑り台。子供と一緒に滑ったり、落ち葉を集めたり、踏んだり。ドングリを拾うこともあるし、風がびゅーびゅーいうのを聞くのも楽しいし、子供の小さいおててをつなぐのも楽しい。子供はなぜか私のことをてえてえと呼ぶ。たまに「ま・まー」と呼ぶのだけど、てえてえと呼ぶことが多い。なんでかわからない。「てってつなぐよ」って言って外に行くから?
子供はちょっと前まで雨のことを「めめ」といっていた。でももういわない。帽子のことを「ぷーきー」と呼んでいた。でも今日からぼうちになった。りんごをこーきーと呼んでいた。でも「いーご」になった。みかんは「いかん」。語彙が増えて発音も正確になりつつある。かわいかったのにどんどん大きくなってしまう。でもまだ小さい。かわいい。毎日かわいい。
子供を見ているのは趣味と言っていいかもしれない。いつまでも眺めていたい。
今は子供が寝ているからパソコンを触れるけれど、子供が起きていたら「あっこ」といって抱っこをせがみ、膝の上にのってキーボードをぱちぱちしたがる。
マウスも触っていろいろすると、知らなかったキーの組み合わせで知らなかった機能が動いていることもあってびっくりする。
そうだ、今はやっているのはpokoyo。超かわいい。たくさんあるから英語のまま聞いて、ちょっとでもリスニング力を上げようともくろんでいる。子供がこれを大好きで何時間も観ながら遊んでいる。一緒に歌ったり踊ったりしている。
あとはなんだろうな。
昨日は化学の酸化還元の反応式の復讐と日本史の平安時代までを復習していた。
全然できるようにならないんだけど。それでできないと思って世界が終わるくらいの気持ちになったりするんだけど、今文字にしてみれば、結構頑張っているんだよね。
頑張っているから悲しくなるし悔しいんだよな。
そう考えると隙間時間にPSVRしていたり、ブログしたり、勉強していたりするから自分で思っているよりは頑張っているのかもしれない。ドラマもできるだけ英語字幕と音声英語で頑張ろうとしているし。今こうしてブログ書いていてわかったけど。
今リアルタイムで外部化は大事だなと思った。
さっきまで悩んでいたけどバカみたいな気持ちになった。
悩むことないじゃんがんばっているじゃん。文字で外に出してそれを見ながらまた文章を書いていると、ほとんど他人を応援するような気持で自分を眺めることができる。
自分はそんなに嫌な奴でもないし悪い奴でもないし、いい人でもないけどそこそこ頑張っている。勉強していて偉い。知らないことを知ろうとしていて偉い。わからないことがあるのを認めるのは、つらいのに。
自分をコントロールできてないことが苦しいけれど何とかコントロールしようと毎日努力していて偉いし、それが徒労に終わって打ちひしがれても死んでないから偉い。
毎日日記をつけて、面白かったことやよかったことを記録することも三年目に入っている。鬱行動記録アプリも一年続いた。
病気をコントロールして、病気に支配される人生じゃなくて、主体的な人生を歩むために努力している。
栄養や睡眠にも気を付けて、トリガーになるものを避ける努力をしているし、以前みたいにめちゃくちゃなこともしていない。鬱に入ったり、発作が起きても、生きることをあきらめてない。すごく頑張っているよ。
当たり前に毎日していて、でも無駄だなと思うし、毎日続けることはしんどいけど、でも続いているってことに意味がある。
いつか、躁鬱をコントロールして、病気を生きるんじゃなくて、自分を生きられるようになりたい。自分と病気は分けられないけれど、少なくとも後悔しないようにしたい。