c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

買い物依存症かもしれない

私の人生はあまりぱっとしない。

運よく楽しい家庭を築くことができて、これ以上の幸せはないと思うが、対外的にはぱっとしない。

 

 

でも、ぱっとした人生って何だろう。グレードギャッツビーみたいなやつかな。

 

パーティと名声におぼれるようなやつがぱっとした人生かな。

 ぱっとした人生にあこがれているけれど、具体的にはよくわかっていないかもしれない。

一日の中で死にたいなと思う瞬間はあるけれど、薬を飲めば収まる。だから、今はコントロールできていて、穏やかな日々。

ただ、ドラマチックではないから、少しつまらない。

買い物依存症かもしれない

心理療法士さんには、双極性障害PTSDADHDのもろもろのことを相談している。

買い物のし過ぎも、双極性障害躁状態の時の症状の一部として、相談している。「気が大きくなって買ってしまう」に該当するか、それとも依存症かどっちだろう。先日は、お金はどうしているのか心配された。

https://wpb.shueisha.co.jp/comic/2018/04/13/102935/ (セックス依存症になりました)を読んで、もしかしたら、自分も買い物依存症かもしれないと思った。焦燥感に駆られて、苦痛から逃げるために刺激を求めるところが同じだと思った。

だから、医学的には、買い物「依存症」ではないかもしれないけれど、自分ではそういう風に考えて対処したほうがよさそうだと思った。

 

 

 

 

 

 

 

ドラマチックな生活

 

ドラマチックな時は、いろいろおかしいことをしたから大変だった。破滅に突き進んでいたというか。お金の使い方がまずかった。と、今は思う。

当時も実は、やばいとひりひりするような感覚があって、その焦燥感を紛らわせるためにさらにお金を使うという悪循環にはまっていたけれど、退屈はしなかった。

退屈すると、自分の過去を振り返るループにはまってしまい、苦しいので、それを紛らわせるために買い物をした。そして、お金を使うこと自体は苦しい。罪悪感がひどくて、一人暮らしなのに自分に見えないところに隠したり、買ったものを積み上げて、そのまま使わずに捨てたこともある。

 

必要もないのに買っている

私の買い物は生活必需品を買うためのものじゃない。

自分の苦痛を飛ばすための刺激のための買い物だ。その時は本当に欲しいと思っている。でも、手に入るといらなくなる。

そういう繰り返しをしていることには気づいていたのに、どうにも止められなかった。

わたしのパターンは二千円くらいのものを次々と買ってしまうというもの。

何万円もするものは怖くて買えなかった。

生活はひっ迫した。一番悪かったのは、家族の財布からお金を抜いたときだ。あとで、もらったよとは言ったけど、深夜に家の中をぐるぐると回って家にいられなかった。小銭を探し回って買い物に充てようとしたこともある。貯金が亡くなっても、借金しても、止まらなかった。

買い物衝動を抑えられた日

買い物依存症を抑えるきっかけになった日のことはありありと覚えている。

ズッカの服を見て、三万円だなと思った。

そして、いつも使っている額より少ないなと思った。

(使っていた額を書くのは勇気がいる)

計画的に使ったら、これは買える。

でも、私はこれを買わないでいても、普段、お金をごみに変えてる。ごみを買ってごみにして捨ててる。

お金をどぶに捨てている。

でも、この服を買ったら、自分は計画的にお金を使う、という自信がつく気がする。

そんなことは、いつも願っていたけれど。

買い物をして、買い物が収まるなんて馬鹿な話はないけれど。

でも、これが欲しいな、と思った。

毒を以て毒を制すみたいな話だな。

 

自分を信用していないが、自己愛は強い

今日はお金を使わないでおこう。一時間は買い物を我慢しよう。それができたら次の一時間我慢しよう。一時間を二十四回繰り返したら、一日お金を使うことを先延ばしにできる。

自分は必要な買い物と、苦痛から逃げるための買い物の区別がつかない。

本当に欲しいものを買いたいと思うけれど、欲しいと思った瞬間はいつでも真実なように思い、今買いたいと思ってしまう。

そういう習性を記録した。その日の日付のところに、カレンダーに欲しくなったものを書いた。そして、保留した。

そうすると、時間がたっても欲しいものと、時間がたって「あれ、これが欲しかったんだっけ」と思えるものと分けられる。

病院の先生には、「保留にしておくうちにどうでもよくなる。それが生活だ」と言われている。

大事なことはあまりないから、たいていのことは保留にしておいて、忘れることはどうでもいい。忘れるということがポイントだ。それでも期限が迫ったり、どうにもならなかったことだけ対処すればいい、という意味らしい。

 

記録して、振り返る、そして、対処するというサイクルが、少しずつ私をましな人間にしている。

 

 

買い物リストを作った時もあったけれど、それはむしろ、欲しいものへの執着を強めて、逆効果だった。

 

 

私は自分を信頼していない。信頼していないからこういうことになっているんだろう。自信もない。自分を信用できていたら、破滅的な散財はしないはずだ。そういう気がする。

だから、自分との約束を守れるようになったら、うれしいだろうと思った。

 

 

私はお金を貯めてズッカの服を買った。お金を貯めるのに時間がかかったから取り寄せになったけれど買えた。

それで、計画的にお金を使うことができる場合もあると思えた。

自信がついたというにはあまりにもしょぼい。

しょぼいけれどそれが自分だ。

落ちはないし、止まってもいない。

ただ、散財に関して、私は異常だし、それに気が付いたので、普通になりたい。

次の通院でお医者さんに聞きたいこと

お医者さんに聞きたいことが二つあります。

それは、買い物依存症と勉強を教えてもらうと死にたくなることの二つです。

 

私は自分のことを買い物依存症だと思います。

お金に困ってもネットショッピングしてしまう。

お金を使いたくないし、使うのは怖いのに、強迫観念にとらわれて買わないといけないと思い込んで買って、そのあと死にたくなります。

 

ここにはとても書けませんけど、すごい額を使っています。

最近は落ち着いていますが、普通の人から見るとまだそんなに???という額を使っていると思います。

コントロールできつつあるのは、投薬がうまくいっているせいなのかな。

 

 

手足が冷たくなって、冷や汗が出て、頭がすうっと冷たくなるようなめまいがするような感じで、嫌な感じに動悸がして、それから楽になりたいと思って、お金を使う……。

書いてて異常だなと思いますが、本当に異常だから仕方がない。

 

今日は数学ⅡBでわからないところがあって、夫に教えてもらっていたのですが、「こんなにわからないならバカでしかたがないんだから死んだほうがいい、役立たずだし、意味がない、バカすぎて生きていても許されない」と思って、すぐに飛び降りたくなりました。

 

以前にも、勉強を教えてもらっている最中に死にたくなり、教えてもらっていた紙をびりびりに引き裂いて、相手を泣かせてしまったことがあります。

 

 

高校生の時に、脅迫されて嫌なことをしたことを思い出すからかなと思いますが、よくわかりません。当時は、本当に毎日死にたくて勉強に集中できず、このままだと人生を台無しにするとよくわかっていたのですが、脅迫は毎日昼夜問わずされていたので、結局、人生が破綻しました。あの時、選択を誤らなければ、もう少し健全な精神でいられたのにと悔やまれて、全部やり直すために死にたいなと思います。

死ねば楽になるんじゃないかな。治らないならいっそのこと死にたいです。

 

 

ということを、病院に相談したらいいのかな。

 

 

依存症は、つらいことから目をそらすためにしており、つらいことを直視することを先延ばしにしているので、ある意味で生き延びるためにしていることです。

でも、それによって、人生が破綻しても困るので、何とかしたいのです。

 

相談して何とかなるものなら生きていてもいいし何とかならないなら死にたいなと思います。生きているのはすごくつらいことです。

 

こういうことを書いていると、時々、「嬉々としてつらいつらいと書いている」という人も現れますが、嬉々としているわけじゃなくて本当につらいのです。

 

 

といっても、そういう風に言う人には伝わらないのでしょうが……。

 

 

それはそれとして、死にたいとはいえ、生きているほうが望ましいので死ぬことを先延ばしにしようと思います。

病院に行って相談してアドバイスをもらうと、霧が晴れるように楽になることがあるのです。

 

 

今月は自分のつらさを受容するという宿題をもらっています。眠かったら寝る、とかですね。

躁状態の時には、元気の前借をしているので、鬱の時には借金を返している状態だから眠いのだ、と言われました。

 

うつ状態なのはうつ状態からしょうがないけどそれは無視していると伝えたら、ものすごく頑張って無視するのはよくない、多少無視するのはいいけどと言われました。

 

 

近頃はブログを書こうとしても、うまく書けません。

だから、今日は起承転結もないですけど、書けることを書こうと思って書きました。

机の上をすっきりさせるために買ったもの

机の上をすっきりさせるために買ったものです。

 

 

 これを買いました。ノートパソコンが立てておけます。でも、ちょっと早まったなと思ったのは、これ、ロゴがついているんですよね。目立たないロゴだし、気にしないほうがいいのかもしれないけど、mosisoて謎すぎる。

買った後に謎のロゴがついているのが気になったのでした。

 だから、もし、こういうのを買いたい人はJコートンのほうをお勧めします。

 たぶん全く同じだと思います。

 これは、重さもしっかりあって、滑り止めのゴムがしっかりしているので、ずれずに立つ感じがします。といっても、使い始めてから三日くらいしかたっていないので、使っていたらいろいろあるかもしれません。

 

 こういう、四角い書類を入れるものを探していました。

ドキュメントケース、キャリングケースとかも探しました。まず、こういうものの名前がわからなくて難儀しました。これは、届いてみるまで柔らかさがわからないので、一つだけ頼みました。

 これに、手紙やメモ、メモ帳、筆記用具、ノートなどを入れて、ふたをして、立てたノートパソコンの横に立てかけました。これでかなり机の上がすっきりしました。

 

 

 リヒトラブの商品は、他にも勝っていて、キャリングバッグと、バッグインバッグを持っています。

 

 

 

 

 

 

 

これは、どうして買ったかというと、バッグの中に本を入れると、角が丸まって痛むのが嫌だなと思って買いました。ポーチには本は入らないし、丸くならないわけではないし。

 一つ買うと他のも欲しくなって、

リヒトラブ ダレスバッグ A660-24 A4 ブラック

リヒトラブ ダレスバッグ A660-24 A4 ブラック

 

 これとかもよさそうだと思います。

 

 こういうのでもよかったなーと思います。コクヨのとか。

 

   

 

 

 

子供の様子

子供と公園に行ったら、自動販売機のある所まですたすた歩いて行って、もう買ってもらうものだと信じ切っているので、笑ってしまった。

ジュースを飲ませて、滑り台で遊んだ。ほかの子供が来たら、順番を譲った上、その子が上手に滑れたら、ぱちぱちしていたので、おかしかった。ほめたつもりかな?

 

四月五月に、保育園で、いろいろな子が泣いているとき、頭をなでて回っていたという話を保育士の先生がおっしゃっていたので、誇らしい気持ちだった。

家ではわがままをいうこともあるけれど、外で悪いよりはずっといい、と思って、甘やかしている。

 

 

今日は、夕食もあまり食べないのに、ゼリーを食べたがったので、食べさせた。

与えないこともあるのだけど、病気で食べられず、ゼリーなら食べられるから要求しているということが過去に何度もあったから、食べさせる方針にしている。

手足口病が治ったばかりで、病み上がりということもある。まだ口の中が痛いのかもしれない。熱の出ない手足口病だったので、湿疹も「あせもだろう」と思って、受診が遅れてしまった。だから、体力が戻るまで優しくしたい。

 

 

今日は、たくさん遊べた。近頃はネットをあまりしないようにしている。なおざりになってしまうことに気づいたから。今まで貴重な時間をなおざりにしていて激しく公開している。でも、これから、ネットで気をそらすことなく子育てに向き合っていきたい。

夫は、「向き合いすぎるとかえって息苦しかったり、注目しすぎて、自分を追い詰めて子育てにも悪影響があるから、ほどほどにしたほうがいい」とも言っていたので、ほどほどにしたいとも思う。

 

ねかしつけのとき、ざぶりんという遊びをした。ざぶりんというのは、ざぶりんと言いながららっこ抱っこをして、寝たまま左右にゆらゆらするという独自開発した(しょうもない)遊びだ。子供は口を「0」の形にあけてよだれを垂らしながら喜んでいた。

 

 今日はこの記事を読みました。

http://hoikushipapa.jp/blog-entry-357.html

多少自信がなくても、方針を決めて、その通りにしておくのが、子供にも安心だということだから、間違っているかどうかは気にせず、ある程度遊びも持たせながら、子供が安心できるようにかかわっていければいいかなと思いました。どうせ、大人になったら好きなようにするのだからと思って、話し合えるようになるまでは、それこそ目くじらを立てすぎないようにしたい……。

 

きの発音を練習した (促音化構音について)

きの発音について、どうもおかしいということを薄々感じていたんですが「ばななぶっぶー」という歌の「てけてけ」が言えないことに気づいて、放送部の部長をやっている人に聞いてみたところ「きは舌をべったり下にくっつけたままいう」ということを聞いて、「え!舌の根元から息を破裂させるように言わないんだね」とわかったのでした。

 

舌の根元から息を破裂するように「き」と発音することを、「促音化構音」と呼ぶそうです。これもネットで調べるまで分かりませんでした。

 

 

「アナウンサーの発音の仕方の記事をぐぐるといいですよ、たくさんありますよ」ということでググりました。

http://blog.livedoor.jp/hot_r_blog/archives/50579036.html

こちらの記事を参考にしました。

 

 

 

 

わたしのきは、きじゃなかったんだね、ということで「く、く、く、くぃ、くぃ、くぃ、き、き」で、「き」が言えました。

きの発音の練習をして、舌の中心から息を出して、舌を左右対称に動かす、とコツがわかったと思います。

今は、かえって発音しにくいし、舌の筋肉がないので、鼻濁音みたいな音になっていますが、じょじょにきれいな音になっていると思います。

 

 

 

わたしは、歌や英語では「き」「け」と言えているので、日本語の会話だとなんでそういう癖があるのかわからない。きよしこの夜をうたったときは「き」と言えている。

 

 

 

促音化構音で声を出すと、私の場合、声を緊張させて、高い音で話す。でも、ちゃんとした正常なきをいえると、ちょっと声が変わって、低い落ち着いた声が出せる。

声が高いのはコンプレックスだったのだけど、のどの上のほうを使う声じゃなくて、のどの奥から声を出せるようになるかもしれない。そうすると、ちょっと落ち着いた話し方になるはず。これはうれしい。

 

けの発音も練習しているけれど、基本的には、「き」と舌の位置は同じなので、同じようにkの音を出しながらえの口にしたら、ちゃんといえそうです。

キリスト 父 ちりちり りり かぎり が続けて言えるようになってきてうれしい。

 

きをちゃんと言おうとして二日目です。

気になりだして半年たちました。気になってからは幽遊白書の海藤のゲームみたいに、頭の中で文章を添削して、か行を極力排した会話をしていたので、そういう限定を解除できそうですっきりしました。

 

「き」単独で言えるようになったら、単語の中の「き」を言えるように、早口言葉などで練習しています。

単語ではまだうまく言えないんですが、希望が出てきました。

 

促音化構音で調べると、いろいろなページが出てくるんですが、上記の記事が一番当事者の話としてわかりやすく、コメントも参考になりました。

 

 

 

せんせいのお人形を読んで感じたこと

 ツイッターで評判の良かったせんせいのお人形を読みました。

せんせいのお人形 2 (comico)

せんせいのお人形 2 (comico)

 
せんせいのお人形 1 (comico)

せんせいのお人形 1 (comico)

 

 すさんだ状況でサバイブしてきて、何も見ず何も感じないように過ごしてきた少女の話です。

親せきの間をたらいまわしにされて、だれからもいらない子として扱われていた子供を引き取って教育していく、という話です。

それは、人に認められるため、というよりも、自分で自分の人生をかじ取りするために彼女自身が「知」を獲得していく物語です。

読んでいて背筋が伸びます。

 

好奇心や知ることの喜びが爆発して、頭が沸騰しそうになる部分がよく描けています。どうして藤のさんが天才の気持ちを想像できるのか不思議でなりません。

 

わたしも十四歳のころ、同じような経験をして、世界を手中に収めたと錯覚しました。

すべては自分が掌握でき、そのうつくしさを理解できる。そういう気持ちです。

なにかが有機的に結びついていて、学問の根っこが同じことや、人々の心や歴史が星のように輝いていて、それがどっと首筋に流れ込んでくるような感覚です。

 

あのときは、桜が散っていて、花弁が光の粒子のように輝いていて、風がさあっと吹きわたっていました。透明な緑の光が、葉陰から差し込んでいました。

 

わたしはベンチに座っていて、動物の鳴き声を聞いていました。

 

 

よく想像していたことですが、わたしがダークマターくらい小さな存在だったとすると、わたしは巨大な何かを通り過ぎることができます。巨大な何かは粗だからです。そして、わたしは誰かを通り過ぎたことを近くできないし、巨大な何か自身も近くできません。それでいて、わたしたちは、お互いの存在に触れているのです。

 

せんせいのお人形は、一巻の伏線が一気に回収されて、豊かな物語に変換されていきます。あらすじの描く弧はとてもきれいです。

 

 

絵もとても気に入りました。

中でも気に入ったのは、唇の描き方です。ときどき、ああ、子供ってこういう口元をするな、と思ってにこにこしてしまいます。

主人公の顔がだんだんほどけてやわらかい表情になるのも、見ていてグッときます。

物語だから、出会うべき人と出会うのが淡々と描かれていきますが、救いというのは、相補的に行われるのだと諭されるようで、「学ぶ」「救われる」「うれしい」という感情は、人間(それは生身でなくてもいい、書物や数学、物語から伝わるものすべて)から伝えられるものなのだと思いました。

孤独でいても、どれだけ自発的に自分の考えや感情が独立したものだとしても、それは、人と人との有機的なつながりから得られたものだなと思います。

 

私は、本を読んで、時間的にも地理的にも離れた人と会話しているつもりでいます。

それは、寂しかったころ、そうしていました。そのころ出会った本の積み重ねがあるから、今も生きていられるのだと思います。

そういうことを改めて思い出させてくれた良い漫画でした。三巻が出るのが危ぶまれているそうですが、とても楽しみにしています。

 

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いただきもの

 キャンメイクのマシュマロフィニッシュパウダーをいただきました。

ありがとうございました。

 

 これは、肌に対して明るすぎる色だったのですが、目の周り、つまり頬骨から眉にかけて塗ると、肌がきれいだとよく言われます。

顔全体に塗ると白浮きして、おかしなことになるのですが、目の下や頬骨にかけてのグルっとした部分を塗る分には問題がありませんでした。

ファンデーションを塗ることがあまりないのですが、ちょっとでかけるときに、手をかけたいなと思えばmさっと塗れるのでよかったです。

汗をかいても顔がさらっとするので、塗っていてあまり気にならないのも良かった点です。

 

 

 

他にもほしいものリストで、バースをいただいたのですが、夏の間は毎日シャワーのみだったのでまだ使っていません。これも、使うのが楽しみです。