c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

写真の中の人にコーヒーを差し上げる

詳細は省くが、子供が写真の中にしかいない人にコーヒーを飲ませたので、みんなで涙ぐんだ。写真というのは今はそこにない光景を映し出していてそれがとても悲しい。時間をさかのぼることはできない。同じ場所は存在しない。同じ人に会えることもない。

 

話が変わるけれど、子供がいないいないばあを観なくなってしまった。

二歳になって、大人になったのだ。

 

いないいないばあは素晴らしかった。子供は見ながら毎日かわいい踊りをしてくれたり、歌ったり、手遊びをせがんでくれたりしていた。

それなのにわたしは、スマホを見て、そのかわいい姿をなおざりにしていた。

二度とない瞬間のすべてを見逃したくないと思っていても、つい疲れたりぼーっとしてしまったりして、スマホに逃避してしまっていたのだ。

でも、やっぱりそれは、わかっていた通り、間違っていて、とても後悔している。苦しいほど悲しい。

 

あの踊りも、振り付けの最中にぺこっとするのも、二度と見られない。

つけても、コントローラのバツを押して番組を変えてしまう。

背中に乗って、まっすぐまっすぐまーっすぐとうたいながら、うへうへ笑うこともない。

 

そう思えば、瞬間的に涙腺は緩む。

 

今日は、水族館に行った。日差しが強くて暑かった。子供は階段を上りたがるので、両方から手をつないで、一緒に歩いた。歩きすぎて疲れただろうに、子供ははしゃぎまわって泣いているような声で笑っていた。顔を見なければ、泣いているか怒っているか笑っているかわからない。それぞれ違う感情なのに、同じ声で笑うから。

 

子供が水槽にへばりついていると、イルカがやってきて、そばに何度も来てくれ、にこっと歯をむき出して笑ったので、最高のツーショットが撮れた。もちろん、歯をむき出しにしたからと言って笑ったとは限らない。攻撃したいと思ったのかもしれない。どっちでもいい。なぜなら私たちは水槽の中には行けない。イルカも水槽の中から出られない。壁を隔てて私たちは違う世界を生きている。水の中と空気の中では会話もできない。思考も共有しない。感傷が、私に、彼らの感情を想像させるけれど、それは自分のエゴの投影に過ぎない。

広い意味では、同じ次元の同じ平面、同じ時間にほぼ同じ座標ににいるけれど。目が合っても、考えていることは一つも分からない。目が合ったと思っているのは私だけだ。

 

あのイルカはほかの一歳くらいの子供にも同じサービスをしていたから、人間の子供がかわいいのかもしれない。イルカたちも子供を連れていた。二組の親子イルカ。赤ちゃんイルカが、親にぺったりと寄り添って泳いでいた。

 

子供は「うおー」というような雄たけびを上げて、じっと見つめていた。

 

しましまの魚、赤い魚、エイ、大きい魚、小さい光る魚の群れ、トルネード、スコールやマングローブの中に、いろいろな魚がたくさんいて、それ以上に多くの人間がいて、人間を見るのに酔って、自分の首筋には蕁麻疹が出た。

タコがいて、六歳くらいの知能があるはずだと聞いていたので、あんな狭い水槽ではかわいそうだから連れ出したいと思った。衝動的に。でもできない。私はタコを食べる平気に。

子供はずっと走り回っていて、それを止めようと右往左往しているうちに夫の足には靴擦れができ、彼からそれを伝えられたので、ばんそうこうを渡して、靴下を交換した。親しくなければ靴下の交換なんて気持ちが悪いし、これを今読んだ人も気分が悪いかもしれないが、本当に親しいと靴擦れができていたい人のために、痛いだろうと靴下さえ交換して、いたわることができるんだと思った。私にはそういうことができるんだなと思った。

 

私と血のつながっていない人たちは、私の子供をかわいがって、辛抱強く話しかけ続けた。彼らは上手に説明をする。ころころするよ、ドラえもんお船の絵どっちが好き?上手にできたね、こうやってみて、飛ぶよ、ほら飛んだ、うまくできたね、そこを指で押さえると飛ばないよ、そういう風にずっと話しかけていた。わたしはその光景を見ているうちにさみしいような胸を締め付けられるような、つまり、幸せな夢を見ているような気持になって、ふわふわして、これは現実だろうかと思った。

 

私は何時も雑に子供に話しかけるから、あんなふうに丁寧に、遊んでいるときに話しかけたりしない。

これはいい、あれはだめ、それはよくない、上手だね、うまいね、よくできたね、良かった根みたいな感じに話すから、物事の説明はあまりしていない。

 

血のつながりがあると、雑に話しかけても通じるような錯覚をするから、生きているうちにみんな話し合わない。私は、雑なのが分かっているから生きている親に話しかけない。手紙を書いた。書いた相手と書いていない相手がいてそれぞれどう思っているかはよくわからない。私は彼らを幸せにしてあげたかったと長く願っていたけれど二人とも今幸せかはわからない。幸せにするためにどんなことでもしていたけれど、それでもだめだったから、自分をすり減らしてしまった。なくなってしまう前に逃げられた。

 

私の子供は、私のことを嫌いになり憎んだとして、そして、大人になって二度と会えなくなって、一人で生きて行って幸せになってくれたらそれ以上さみしく、うれしい、幸福なことはないと思う。私のそばにいて不幸なよりも、私から遠く離れて幸せであってほしい。ただ、私は子供の幸せを作ることができない。

でも、私が自分を幸せであろうとすることができる。そうしたら、私が親から受け取った負担の一つを減らすことができる。幸せな人は幸せを連れてくる。自分を幸せにすることでしか人を幸せにすることはできない。

 

 

子供は写真の中の人にコーヒーを飲ませることができた。写真の中の人がコーヒーを飲むことはできない。でも、その優しさのようなものが、私たちをさみしい幸せに導いたことは確かで、そして、私たちは子供のことを愛しているということも明らかだ。冷たい泉のような希望に満ちた光。今は隣でキーボードをいじって、私の真似をしている。さっきは椅子から転げ落ちて泣いた。趣味でテントウムシの格好をしてもらっている。

 

 

汗まみれになって、水族館でイルカを見た。イルカは子供を連れていて、そして、私の子供のそばによって、歯をむき出しにしながら、縦泳ぎで、プールの底からすっと上がっていった。