c71は生きている

荒いまま思ったことをしがらみなく推敲しないで書く

わたしとあなたの出会えるところ

最近は資格勉強していた。自己採点したところ、ぎりぎりのラインで落ちてしまっていた。

三か月集中して取り込んだのでかなりがっかりした。

けれど、三か月八十時間くらい勉強できたのは自信になった。

私は自分の頭が悪いんじゃないか心配しているので、明日も病院で相談してくるのだけれど、本当は別に悪くはないともわかってる。

ただ、自分のしたいことに見合う頭の良さじゃないから、そして、努力が足りていないから、頭が悪いと思っている。

努力が足りないから、できていないのがわかっているから、容易に嫉妬する。

 

私は夫にときどき勉強を教えてもらうのだけれど、だいたい動揺してイライラして、薬を飲んだり泣いたり怒り狂ったりする。いい迷惑だからやめたいんだけど、なかなかやめられなかった。

でも、それは嫉妬だとわかった。

彼は誰よりも努力家で隙間時間なんてない。ぼんやりすることもない。いつも、起きている間は仕事をするか、勉強をするか、家の用事をするか。

現実逃避をほとんどしない。

 

 

私はと言えば、現実逃避をし続けることで人生を失ってしまっている。

それは少なくとも八年前から指摘されて知っていた。

過去を悲しむことや、失われたものを悲しむこと、それに酔うこと。

自分で自分の苦しみの殻に閉じこもって、酔っぱらったように時間を過ごすのは、現実を見ずに済むので、苦しい一方で楽だった。そこに努力は存在しないから。

 

私の前に現れた彼は、長いことしたかったことから疎外されていたから、したいことに飢えていた。朝六時にランニングをして、私が起きるくらいに帰り、シャワーを浴びて、朝食を用意してくれる。私は朝が弱いので、ゆっくり起きて、洗濯をする。

友達に、「家事もやってもらっていて、じゃあ、あなたは何をしているの?」と言われたけれど、何かな……。

生きることをしている。

 

生きることには努力がいる。私は生きることを努力している。たぶん、死なないように。死にたいけど死にたくないから。生きていたくないけど生きていたいから、割と努力している。

 

彼はたぶん、すごく生きていたいんだと思う。だから、知識欲に飢えていて、五分でも暇があったら参考書を開き単語帳アプリを覗き、子供を抱き上げる。

 

私も勉強をすることで、自分を取り戻せたような気がした。集中するということは自分を取り戻すということ。自分のために集中すると、ぼけた自分を振り落せる。頭がすっきりして精神的には落ち着いた。

 

私と「あなた」はものすごくとても違っている。

「あなた」は彼でもあり子供でもあり、この文章をのぞき込んでいるあなたでもあり、「私」でもある。私は今書きながら自分の文章を読んでいるから。

 

自分の時間を持つことが、自己を形作る。自分の形がゆがんでしまったり、境界線が溶けてしまうと、それは人を飲み込む濁流となる。濁流は人を害する。

 

子供を育てることで、自分の時間は減り、だんだんすり減ってしまう気がする。子供に対する愛情にあふれて、そのままあふれた自分が、子供に注ぎ込まれていく。だんだん消えてしまう感じがする。消えてはないんだけど、このままだと、いつか子供を飲み込んでしまう化け物になってしまうような怖さがある。自分が薄くなってしまう。

今は子供と一体でもまだいい時期だと思う。でも、もう少ししたら離れなくてはならない。これはとても悲しい、寂しいことだから、なかなか決断できない。

子供がかわいいから、愛しているから、何でもしたいから、自分のことはどうでもいいから、どうでもよくなった自分よりも子供のほうが大事だから、だから子供に集中して、どんどん飲み込んでいって、薄っぺらな自分が残る。

もう後戻りはできなくなって、焦りながら、子供を追い立てる未来がほんの少しだけど見えてしまう。

子育てが少し楽になればなるほど、子供の自我の問題が出てきて、それを阻害しないために、距離を取らないといけない。

距離を取るためには、自分を形成しなおさないといけない。

そのためには、自分の時間をとって、自分に集中しないといけない。茫洋と間延びした自我を削いで、きちんと整える。これは現実逃避じゃない。ただもう、現実だ。愛しているから。本当の意味の、良い愛を保つためには、自分の根っこがしっかりしていないと、何も与えられない。寄生してしまう。

 

私とあなたが出会う場所は、濁流であってはならない。それが何かを押し流して死なせてしまう場所ではならない。私とあなたが出会う場所は、澄んだ水がさらさら流れる清流でなくてはならないよ。生きていくためにね。

自己肯定感と気分の上下の相関

昨日の記事では、自己肯定感はなくていいと書いた。c71.hateblo.jp

 

 

自己肯定感があるとは躁状態なんじゃないのか

自己肯定感とは気分の上下の問題だと思う。

私は躁鬱なのだけど、鬱の時には自己肯定感がないし、躁状態の時には自己肯定感がある。

振り返ってみると、今まで自己肯定感がないと言っている人たちは、鬱ではないものの鬱状態ではあったと思う(鬱は病気だが鬱状態は病気じゃないという定義がある)。

つまり、自己肯定感があるかどうか悩む事態は、気分を良くしたら解決する問題なのではないだろうか。

自信がある人というのは、うつ状態じゃないだけではないだろうか。元気で健全みたいな感じ。ただ、躁とは違って、それで制御不能にはならないみたいな。

(私には躁と鬱の中間が今のところあまりないので推測だけど)

だから、元気になれば、自己肯定感を経由しなくても、ぐらぐらしなくなるはずだ。

自己肯定感と自信や安定はセットで語られがちだけど、むしろ、元気や健康のほうが大事なんじゃないか。

元気や健康のためには、規則正しい生活や睡眠、休息が大切である。

個人主義と心理化

近代では、キリスト教の価値観から脱して、人間中心主義に回帰するものだった。そそして、個人主義が盛んだった。若きウェルテルの悩みやロビンソン・クルーソーが代表しているような。

個人主義は、理性をもって身体や自然を支配する、人間が一人で完結するべきだという、精神が身体を凌駕するという主義だ(と私は理解している)。

これは、心の領域を広げるものだった。心理学が、近代化とともに発展したことも無関係ではないだろう。あらゆるものが心理化され、社会的な問題も、個人の心の持ちようだと転嫁することも、個人主義への批判としてあげられる。

 

さて、心の動きや、感情に左右されていると、社会生活がままならなくなる。

それは、私が一番実感していることだ。

習慣を重んじて身体化してしまう

そのために、どうすればいいのかというと、習慣を重んじて、身体化してしまうことだ。

例えば「行きたくないかもしれない。行こうかなどうしようかな、やめておこう」とぐるぐる考えていると、本当に行けなくなってしまう。行くかどうか迷うこと自体が、害悪なのだ。

そして、このぐるぐる思考には正解がない。悩みを作り出してしまう。

 

だから、行くかどうか悩むよりも、「行くものだ」としてしまうほうが良い。

もちろん、心をあまりにも軽んじて、行かないほうがいいのに行く洗濯をすることもよくないだろう。

それは躁鬱のコントロールと同じではないのか

躁鬱をコントロールするためには、毎日の生活を習慣づけることが大切だ。

習慣化、身体化してしまうと、いちいち悩まなくていいので、感情の動きに左右されて何もできない場面が減る。

「この鍵をどこに置こうか、今日はここに置こう」と一つ一つ決断をしていると、心に負荷がかかってしまうし、鍵をなくしてしまう。全く悩まないのも考え物だが、考えすぎると、若きウェルテルのように死んでしまうことになる。

 

昔の日本人は、習慣を大事にしていたらしい。それは、型を重んじることにもつながっていただろう。茶道や職人気質は、型を大事にする。型から入って、動作をコントロールすることは、心をコントロールすることにもつながる。

気分を安定させるために

と、いうわけで、気分を安定させるためには、行動を習慣化・身体化する。そして、なるべく頭を使わないようにする。気分を安定させたらいわゆる「自己肯定感」がなくてもよくなる。自己肯定感がないと悩むのは、何をしてもしなくても、気持ちがぐらぐらするからだ。

逆に言えば、気持ちがぐらぐらしない、ぐるぐる悩まない日常が手に入りすれば、それでいいのだ。

悩むのをやめよう、ぐるぐる思考をやめようと言われてもやめられないから苦しいのである。

やめなきゃと思ってもやめられない。そこで、意識を変えて、習慣をきちっと作ることにフォーカスしよう。

時間になったらご飯を食べる。時間になったら歯を磨く。私がつかれるのは、いちいち

ご飯食べたほうがいいかな、でも、おなかすいていないからやめよう、と考えるからだ。そろそろ歯を磨かなきゃいけないけど、磨きたくない、と悩むからだ。

磨かなくてはいけないものは磨くしかない。そこに磨かなくていいという選択肢を浮上させるから悩まなくてはいけなくなる。そこで、気分や感情に登場してもらっては困るのだ。やることはやる。やらなきゃいけないと思うと疲れる。

気分がどうであれ顔は洗う。朝起きる。そうしないと、生活リズムが崩れて余計苦しむことになる。

自分も他人もコントロールできない

自己肯定感がないとか、自分を愛さなければ人からも愛されないというおどしや嘘は、忘れよう。愛されなくても自己肯定感がなくても別にいいんだから。自己肯定感も自分を愛するかどうかも、元気じゃないときには、自分でコントロールできない感覚だ。自分を愛せればそりゃーいいけれど、それができないから悩んでいるのだ。悩まなくてよくするために、「自分を愛したい」と考えるのは本当に正しいだろうか?

元気になれば自分を愛したいという発想自体が消えるんじゃないだろうか。

愛されたい、愛されなくてはいけない、と考えるのは苦しい。人は自分の思い通りにはならないから、いくら望んでも、叶わないこともある。自分で自分を愛せるようになるかも怪しい。自分で自分をコントロールできるならば、自己肯定感もとっくに手に入って、安定した人格になっているはずだ。それができていないのだから、人のことも自分もコントロールできないんだとあきらめたほうが早い。

感情に合わせない

感情は暴れ馬のようなものだから、それに合わせると人生がコントロールできなくなってしまう。

自分の人生をコントロールするためには、感情から距離を置くことが大切だ。

感情は感情で存在するものだけど、それとは別に、ちょっと俯瞰してみて、自分の人生を歩む、人生をコントロールする意思が必要だ。

 

自己肯定感はなくていい。それより大事なのは具体的な行動

以前に、自己肯定感はなくていいという記事を書いた。

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自己肯定感について考えるときはそもそもつらいとき

今は自己肯定感についてはあまり考えずに済んでいる。

自己肯定感について考えてしまうときは、そもそもつらい時だ。つらくなければそんなもんのこと考えない。

「自信がなくて自己肯定感がないから、くよくよ考えてしまうんじゃないか、自己肯定感を育てないとダメだ」と思ってしまう。てか、人に「あなたは自己肯定感が少ないからダメなんだよ」と言われる。

でも、そういう時に自己肯定感を育てるだとか自分を愛するだとかグリーフワークだとかやるとかえってドツボにはまる。

カウンセリングでしていること

私はカウンセリングを受けているけれど、それでやっているのは、困っていることを具体的に洗い出して、それを具体的に解決できそうな策を相談することの二つだ。

そんなのやっているよ、と思っていたけどカウンセリングですることに割と意味があった。カウンセリングは、治療の一環で病院で受けている。

話すと自分で自分の声を聴くから、それが記憶に結びついて良い。

私は、カウンセリングとは何か、最初何をするのか不明だったから「今日は何をするか説明してから始めてほしい」と見通しを教えてもらうように話した。一回目は意味がないと思って、途中で退席してしまったくらい、カウンセリングには不信感を持っていた。意味わかんなかった。なんで話さないといけないんだ。でも、医師になだめられて続けることにした。

でも、具体的な行動をすることで、困っていることが解決するのは気持ちよかった。軽くなったような気がした。この「軽くなるような気」が大事なんだと思う。自己肯定感を追い求めるより、自信がつくっぽい。

具体的な行動

自己肯定感がない時に必要なのは具体的な行動だ。子育てだって愛情がなくたって、やるべきこと(掃除洗濯食事)をしていたら、愛情があってそれらをしていないよりもましだろう。ベストは愛情をこめていろいろ世話をするのが一番だろうけど、それができないから悩んでいるのであって。

 

また、いつまでもべったり世話をされているのも、子供だって迷惑だという話もある。抱っこをせがまれたら抱っこをし、悪いことをしたらしかる、ってだけで結構クるものがある。私も眼鏡を蹴られると頭が沸騰しそうになる。

 

私は躁鬱で、今は鬱だから「自分はダメだから死んでしまうしかない」とかよくぶつぶつ言っている。でも、死にたいけど死にたいわけじゃないことが最近ようやくわかってきたので、薬を飲んで寝ている。そもそも、そういう不穏な雰囲気が出てきたら事前に薬を飲む。そうするとそういう思考が止まる。気の持ちようでどうにかなるなら医者に掛かっていない。気の持ちようはある程度状態がよくないとうまくいかないように思う。気の持ちようを変えられたらそれがベストなんだろうけど。

朝起きて顔を洗えれば大体それでよい

私は医者に言われているのは、朝起きて顔を洗ったら寝てよいということだ。朝一回でも起きていたらリズムが崩れないからだそうだ。そして寝る。寝ることを責めない。受容する。

受容とは、あきらめが肝心という意味ではないか

私は思うのだけど「あきらめる」ってことなんだと思う、受容というやつは。

受容、すなわち、あきらめが肝心って意味。

受容という言葉と自己肯定感って言葉は似ているようだけど逆だと思う。「あきらめ」と「強迫観念」くらいの。自己肯定感という言葉に取りつかれていると追いつめられる。つまり、自己肯定感=強迫観念。自分を愛そうとかそんなんできたら悩んでない。

私が一番つらかったのは、母親に「自分を愛すための本」を与えられて読まされた時だ。グロテスクだ。

そういうわけで「自己肯定感がないからダメなんだ」と思う人は「あー自分はそういう人なんだからあきらめよう。あきらめて寝よう」くらいなのがいいんじゃないかな。

自己肯定感が低いから悩んでいるとタゲられて余計いじめられるような気がする。「こいつ弱っているからいじめちゃろ」ってなる。

そして「あなたは、自己肯定感が弱いよね、自分を愛さないと愛されないよ」と言われてしまう。なんなら、ダメなスピリチュアルだとか、ダメなマルチとかに吸い込まれてしまう。(スピリチュアル全般がダメとは思ってませんよ。生活の潤いとしてよい。でも、ネットワークビジネスはダメと思う)

自己肯定感と愛されたいはセット

自己肯定感がどうのこうのと言っているときは、たいてい、さみしい時だ。さみしいとか愛されたいとか思っているとき。

でも、一人でぐるぐる考えても仕方がない。知り合いを作って礼儀正しく接し合うとかで良いような気がする。愛してくれと言っても愛されることはない。それは独りよがりだから解決しない。自分で完結しよう!べったりできる相手を求めると破滅する。私は破滅した。別にいい経験でも何でもない。

自分のことなんて愛さなくたって別に構わない。生きていたらいい。実のところ、生きていたほうがいい理由はよくわからないけど。

そもそも、愛されないと困ることって何?別になくない?あきらめよう。

自己肯定感を追い求めてドツボにはまるよりは、あきらめていたほうがましだ。

繰り返すが諦めが肝心。

人生が苦しい時には寝て(できれば)おいしいものを食べる。軽い運動をする。働ければ働いてお金をちょっとでも稼ぐ。

生活の手抜きについては

家事は手抜きすら要求水準が高すぎてつらい - 雑記帳 がおもしろかった。

 

 

家族が大学に通っている

朝、涼しかったので、子供の衣替えをした。

去年の冬服がつんつるてんになっていることに気づき、成長を感じた。

ちょっと寂しいかもしれない。

秋服を出して散らかしたものの、これをどうやってしまおうと途方に暮れてしまった。

というのもまだ暑くなる日があるかもしれないので、Tシャツも少し残しておくからだ。

 

昨日、焼き肉を食べに行った。子供は六枚も肉を食べた。前回は途中で飽きて泣いてしまったけれど、今回は最後までいい子で座っていた。

 

子供も成長する。でも、大人もまだ成長の余地がある。

 

おとといから一泊、家族が大学に行っていた。とても楽しかったらしく、人に会って、いろいろな話ができた、と興奮して話してくれた。

私が彼と出会ったとき、彼は口数が少なかった。今はよくしゃべるようになった。前も話すことがたくさんあったはずなのに、うまく言葉にならなかったようだ。

今は違う。

大学では、疑問に思っていたことの答えがわかるだけではなく、疑問にも思っていなかったことに疑問を抱けるようになる。

大学で出会った人や、講義で聞く、本に書かれていないようなことが刺激的な様子だ。学校なんて意味がない、本を読んでいたら十分なはずだ、という人もいるけれど、生きている人間がその時に思っていることを話し、それを聞く、というのは、得難い経験だ。

それは、対面で、実際に聞くと、わかる。

動画や読書では伝わり切れないメッセージ、熱量があって、それを吸収できるというのは、学校で行われる最も良いことだ。基礎がないまま独学すると、独りよがりになったり、解釈が大きく間違ったり、何よりも寄り道になってしまう。友達もできにくい。

 

彼は、読んだこと、聞いたことを話してくれる。私は勉強したわけではないけれど、そういうことがあるんだと知る。そうすると、わずかでも世界が広がったような気がして、とてもすがすがしい。大人になると、新しいことが減って、内にこもりがちになる。そうすると、時間の流れが速くなってしまう。

 

新しいことを知ること。それは、自分の限界を突破して、マンネリを打破する契機となる。

彼の大学の友達は、資格を目指している人が多いらしい。それを聞くと、自分も勉強しようと思う。周りに人がいないと、そういうことを思いつきもしなくなる。様々な経歴の人がいると、思いもつかなかったことを知って、自分の可能性を試したくなる。敷居が高いと思っていたことが、一歩踏み出せば、実はそうではなかったのだとわかる。

 

彼の友人に、起業をしている人が大勢いる。そういう人がいる、と聞くと、自分でも何か商売のタネはないかと考え始める。

現実にするかどうかはともかく、そうやって頭を使うことはとても気持ちがいいことだ。自分にもまだ可能性があるのだと思える。

実際には可能性なんてないかもしれない。でも、それでもいいんだろう。

それが嘘でもなんでもいいから、自分には可能性があると信じることが、必要なことなんだ。

結婚できないアラフォーの弟たちのことを勝手に分析してみるをさらに分析してみる

www.gerge0725.work

便乗させていただきます笑。

記事を読んで書いているうちに、id:gerge0725さんの口調と似てしまった気がします。また、分析すると書いていますが、微妙に分析じゃないかもしれません。すみません。

 

自分のことに絡めて書いていきます。

私は婚活をして、婚活で出会った人とは別れて、結局ネットで知り合った人と暮らしています。

 

 痛い目に遭うのを恐れない

婚活をしている間、うまくいったのは、まだ若かったからかもしれません。

まず、人がいるところに行くのが大事でした。

人がいないと出会えないから。

ネットは人がたくさんいるからいいです。

相手は私のブログ記事を全部読んでいました。それで、この人は私のことをよくわかっているなと思いました。自分のことをよく知っている相手だということが、私の場合よかったです。

また、彼はブログを書いていたので、それを読めば人柄も分かりました。会う前には戸籍謄本(抄本だったかも)と給料明細を見せてもらいました。

ネットで人に会うと嫌な目にも遭います。それで大騒ぎしたこともあります。痛い目に遭いました。

でも、その痛い目のせいで腹をくくれたかもしれません。

積極的に勧めていいのかは微妙です。

しゃべるのがうまいかどうかよりも自己開示が大切

個人的には、お喋りがうまくなくても、一生懸命聞いてくれて、相槌を打つのがうまければ、それで十分楽しいです。私は自分がおしゃべりなので、相手がたくさん話すか話さないかは重要じゃないです。でも、相手に興味がないのに話すのはつらいので、興味をもって、聞いてもらえると自分も楽しいです。

 

私の伴侶は、最初口数が少なくて、あまり話さなかったのですが、いつもニコニコしていて楽しそうだったので、気が合うかもしれないなと思いました。

彼はその時、

http://rokujo.org/2015/11/24/161/

 くず米を食べて生きてみよう

という記事を書いていました。

また、家計簿も公開していました。

激安スーパーを探して記事にして、大豆とくず米を食べて、娯楽は、無料のコンサートに歩いていき、本業とは別にバイトをしようとしている、ということがブログからわかり、この人なら、どんなことがあっても、食っていけそうだと思いました。

好きじゃなくても別にいい

その時私は、彼のことを人として好きだけれど、男として好きかというとよくわからない感じでした。でも、好きになるかどうかは後からついてくることで、不愉快な面がなければ、一緒に暮らしていくうちにだんだん好きになるだろうと思いました。そこは楽観的に考えていました。実際、一緒に住んでみると、楽しいので、愛着も沸いてきました。

 

人が多いところに行けば、気の合う人と出会う可能性は高いです。そして、自己開示は必要です。よくわからない人と結婚しませんから、普通は。よくわからないなりに、行動原理というか、価値観はわかっておきたいです。

好きかどうかよりもどういう人かわかっていることのほうが、大事だと思います。安全面からいってもそうです。

後述しますが、結婚で一番大事なのは、相手がDVをしない、ハラスメントをしない、子育てと家事を主体的にする、ということです。その安全が確認できる、というのは好きかどうかよりも大事なわけです。ハラスメントをする人かどうかは、たいていの場合、スイッチが発動するまでは見抜けませんから。

いつでも解散できるようにしておく

私たちは、籍を入れていません。だから、結婚しているとは言えませんが、意識上は結婚しています。

籍を入れないのには、いくつか理由がありますが、籍を入れると別れるときに面倒だからです。

 

私が人と暮らすときに、心配なのは、DV、ハラスメント、話が通じない、この三つです。

もしこのどれかに当てはまったときには、さっと逃げたいですね。

そのためにも、なるべく資産を半分ずつ持つことにしています。それで、いざというときに身一つで逃げられるようにしているわけです。

いざというときには逃げられる、ということがわたしには大事でした。

 

別れるのは大変ですから。お金もかかるだけじゃなくて、精神的にも。楽に逃げられるというのは私の中で最も優先順位が高いことです。

また、別れるときには、収入も確保しておきたいです。

だから、女性が結婚を機に仕事をやめることになる、というのは、結婚のハードルを上げます。男性のほうが引っ越して、女性に合わせるくらいの考えのほうがいいかもしれません。

逃げたいときに逃げにくそうなので、二世帯住宅は敬遠する

そういう意味で、個人的には、二世帯住宅は敬遠します。逃げられそうもないから。姑さん舅さんとの人間関係、その後介護を期待されるかどうかは言うまでもなく。実際にそうではなくても、プレッシャーは感じるものです。

 

男の人はあまり意識しないかもしれませんが、結婚後、「相手は自分のものだ」と思ってから、モラハラが発動する男性は多いのです。

苗字が変わったとき、妊娠した時、出産した時に、相手は自分のものになった、逃げられなくなったと無意識にも思う男性はいて、そういうイベント時にモラハラスイッチが発動するというのはよく聞く話です。そういう時に、二世帯住宅だと、敵が増えるだけであって、味方がいないで孤立するということになります。だったら、敵に囲まれているより、一人のほうを選びます。

 

二世帯住宅に住む、ということは「嫁として捕獲される」んじゃないかという恐れが女性にはあります。男性からすると自分の親だから問題ないと思うでしょうけれど、結婚相手からすると何の保証もないですから。結婚した時にはいいお姑さんでも、孫が生まれたら関係が悪化したというのもよく聞きます。

女性は、娘として、自分の親からも介護を期待される場合が多いです。だから大変です。ちなみに私は自分の親も苦手です。

 

アドバイス

ブログを書いて、交流して、出会った人と結婚したらどうでしょうか。ほかのSNSよりも落ち着いて交流できますし。

自己開示の練習にもなります。会話もだんだんうまくなるかもしれません。話のネタに詰まるということもないでしょう。

現実の世界よりも、人間の数は多く、出会いも増えます。

ただその場合、出会い目的であることは、明記したほうがよさそうです。

また、結婚してきてもらう、というのは、難しいかもしれません。だいたい、女性がいったん離職してからまた就職するのは厳しいからです。だから、職を用意できたら、結婚して引っ越すというハードルが一つ下げられるかもしれません。誰にとっても、収入がないのは不安なことです。結婚への不安材料を減らすということです。

また、自分の故郷から離れたいと思っている女性もいるので、そうした人なら、引っ越してきてくれるかもしれません。

たった一人と出会えればいいわけですから、たいへんですが、赤い糸があるかもしれません。

秘密が多くて書くことがない

最近、ブログが書けないんですが、どうしてなんだろうと考えてみたら、今までは私生活や思ったこと感じたことをさらけ出して書いていたのが、家族ができて、そういうわけにいかなくなったのも一因かなと思った。

 

例えばお金があるという話をすればねたまれるかもしれないし、お金がないという話をすればマウントを取られるかもしれない。

 

そういうのが面倒くさくなったみたいです。

 

 

子供のことをネタにするのも、子供のプライバシーを侵害しかねないなと思う。

 

 

勉強したり本を読んだりしたら、書くことも増えると思うのだけど、なかなか本を読む時間がない。疲れてぼーっとしている。

 

なんで疲れているかというと、子育てだと思う。たいしたことはしてないんだけど、常に疲れた感じがする。

それで、本末転倒なんだけれど、疲れているから、ぼーっとしていたくて、子供が一人遊びをしていて、一緒に遊ぼうと誘ってくれる時でも、放っておいてしまうときがある。

まあ、それは普通なんだと思うけれど、今そうしてくれていても、十年後にはそういうこともなくなるんだから、遊んでおきたいなーと思う。

 

 

最近は、ハッピーセットの付録で遊んでいることが多い。わっかを飛ばすおもちゃが一番好きみたいだ。

 

二歳になってもなかなかしゃべらないので、気をもんでいるけれど、よくわからない不明瞭な中にも、文章っぽいことを話しているので、それはそれでかわいいし面白い。

 

子供は早く走れるようになったし、靴も自分で脱げるようになった。ここで待っていてね、と言えばその場で待っていられるようになった。

 

 

寝るときには、私の上に腹ばいになって寝ようとする。それで、蹴ってくるからとても痛い。痛いとイライラしてしまうので、ぺっとのける。のけるとまた上ってくるのエンドレス。

 

 

そうそう、最近、家族が大学に入学した。今日もスクーリングに出かけている。同じ年頃の人が多いらしく、毎回飲み会をして帰ってくる。友達ができてうれしそうだ。

私も彼も友達が多いほうではないので、友達ができるのはめでたい。

彼はコミュニケーションがうまくないと思っているようだが、意思の疎通を図るのはうまいので、そういう意味ではコミュニケーション能力が高いと思う。人を不愉快にしないし、聞き上手で。口が多少重いけれど、塾講師のバイトを始めたらかなり改善した。冗談も言うようになったし。出会ったときには冗談一つ言うタイプではなかった。

 

 

彼は細かいことが得意で、家計簿をつけるのが趣味だ。

そのおかげで、壊滅的だった家計がなんとか普通になった。

ありがたい。

ありがたい、というのも彼の口癖だ。

何かというとありがたいという。晴れたらありがたい、ご飯がおいしかったらありがたい、何かというとありがたい、という。偉いなあ。

精神障碍者の税金の控除

税金の控除についていろいろ調べてみました。

ただし、申告しないとこれらの制度は利用できません。

 

 

 障害者が受けられる特例がいくつかあります。

障害者本人が受けられる特例

特例の区分 障害者 特別障害者
所得税の障害者控除 27万円を控除 40万円を控除
相続税の障害者控除 障害者が85歳に達するまでの年数1年につき10万円を控除 障害者が85歳に達するまでの年数1年につき20万円を控除
贈与税の非課税 精神に障害がある方については、信託受益権の価額のうち3,000万円まで→非課税 信託受益権の価額のうち6,000万円まで→非課税
心身障害者扶養共済制度に基づく給付金の非課税 給付金→非課税(所得税
相続や贈与による給付金を受ける権利の取得→非課税(相続税贈与税
少額貯蓄の利子等の非課税 350万円までの預貯金等の利子等→非課税(所得税

https://www.nta.go.jp/publication/pamph/koho/kurashi/html/03_2.htm

まず、日常的には所得税控除が一番大きいですね。これは使いましょう。

また、信託受益とは、信託銀行を通して、家賃収入などを得る場合の利益のことです。

贈与税がすごいですね。これってたぶん、障害を持っていても、財産を残して、生活できるようにしておけるってことですよね。国の政策として。

 

相続税の控除

一番びっくりしたのは、相続税です。

年齢×10万円が税額から控除されます。

つまり、5000万の相続だとしたら、控除額が200万なので、

相続税は(5000-200)×20%=240万円かかるのですが、40歳の場合、240から、400万円引くことができてしまうということです。だから、非課税になりますね。

 

相続時精算課税

また、相続時精算課税という仕組みがあります。

全く知らなかった制度なんですけど、これはすごいです。

次の年から、贈与税基礎控除を受けられなくなるという難点はあるのですが、基本的に贈与を相続に変えることができる制度です。

贈与のほうが税率が高いので、メリットがあります。

贈与は毎年、110万円の基礎控除(税金を払わなくても贈与できる額。毎年、110万円の贈与の場合非課税になる)があります。

でも、それ以上を一括で贈与したいとき、相続税のほうの税率をかけたほうが、ずっと安くなります。

生前に贈与した場合、税金が高くかかるのですが、贈与を相続としてみなすことで、税金を低く収めることができる、という仕組みです。ただ、2500万円の枠の中でになります。基礎控除もつかえなくなります。

 

 

 

 

贈与税の計算の一例

例えば、基礎控除額を除いた額が1000万円の贈与だとすると、税率は40%です。ひどい率だ。

(1000-125)×40%で計算すると、350万円の税金がかかります。

 

相続税の計算の一例

しかし、相続税にすると

1000万円のときは、税率が10%です。

 

この場合相続時精算課税と、障害者控除を組み合わせると、税金を払わなくてよくなるはずです。はずです、というのは、受け取る人が子供(直系尊属)か配偶者かで大きく変わるため。

 

配偶者の税額軽減というものがあり、実際に取得した正味の遺産額が一億6000万円までは相続税がかからないという仕組みです。

 

また、他にも、未成年控除、障害者控除、暦年課税にかかる贈与税控除というものがあります。これらは、税額から控除されます。

未成年控除、というのは、20歳に達するまでの年齢×10万円が控除されるというものです。

低年齢の子供は困りますね…。

障害者控除というのは先ほども書いた通り、年齢×控除です。

暦年課税にかかる贈与税額控除

というのは、相続開始前三年以内の贈与税の金額に対する贈与税の控除です。亡くなってから三年以内だったら、贈与税じゃなく相続税を払えばいいってことですね。

暦年課税

は一年間に贈与を受けた財産の合計額を基に贈与税額を計算するものです。

つまり、基礎控除を考えると、一年で贈与した額が110万円なら、非課税ということです。贈与する場合は計画的に毎年110万円までにするとお得というわけです。

 

また、他にもいろいろとあって、

住宅取得の際の贈与税の特例

というものもあります。これも、条件を満たせば、1500万円まで非課税になる場合もあるので、調べてみるとよいと思います。

条件は、省エネ等住宅かそうでないかで非課税になる金額が変わったり、贈与する相手が、父母や祖父などから子という直系尊属からの贈与でなくてはならなかったりするということです。

 

直系尊属間(祖父母、父母から子や孫へ)の贈与が非課税になる場合

直系尊属の場合、贈与税が非課税になる場合があります。

教育資金や結婚子育て資金の一括贈与を受けた場合です。

祖父母からだと、30歳未満の孫が信託受益権(不動産の家賃収入など)を与えられたり、金銭の贈与を受けて銀行に預けたりすると、1500万円までが非課税になります。

 

ただ、教育資金非課税申告書を金融機関を通して提出するのを忘れずに。また、養育資金の支払いに充てた領収書を取っておきましょう。

父母からも同じような精度があります。

これは、20歳以上50歳未満の子が、結婚、子育て資金に充てるため、金融機関等との結婚子育て資金管理契約をした場合、信託受益や金銭の贈与を受け、銀行に預け入れをした場合、それらの金額(価額)から、1000万円までが控除になります。

 

こちらは、結婚・子育て資金非課税申告書を金融機関等を通じて税務署長に提出しましょう。

話は脱線しますが、何かを支払した場合は、必ず証拠を取っておきましょう。振込したら振込用紙、通帳の記帳は欠かさずするべきです。いざというときに役に立ちます。

 

 

結論

これらは、必ず申告してください。申告しないとトラブルにつながります。

税金を納める前には、必ず税務署に行って、パンフレットをもらったり、予約をして相談をするといろいろと教えてもらいます。

ただ、相手の人も人間なので詳しい分野そうでもない分野もあるのでやはりパンフレットを隅から隅まで見ることもお勧めします。